(お祈り)
恵みとあわれみに富みたもう、聖なる天の父なる神さま。あなたの麗しい御名をすべてにまさってあがめ、ほめたたえます。今朝も、週の初めの日、ただキリストのゆえに、すべての罪を赦されて、汚れを洗い流されて、聖なるあなたの御前に集められ、あなたを私たちの慈しみ深い父として覚えて、礼拝をおささげできます幸いを感謝いたします。どうぞ、集う一人びとり、またそれぞれのところで礼拝を捧げるお一人びとりに霊の祝福を豊かに注ぎ、恵みで満たしてくださいますように。そして一人ひとりの内なる人を、恵みによって、また御霊によって、強めてくださいますように、お願いいたします。
連日、大雨と地震の速報が入っています。日本だけでなく、世界各地で災害が起こっています。被造物がうめいているかのようです。人間があなたに背を向けて勝手な道を歩み、傲慢になって、滅びの道に向かっていることに対する警告のようにも思われます。私たちすべての者に悔い改めの心をお与え下さい。そしてどうか、被害を最小限にとどめて下さいますように。被災している方々に必要な助けがすみやかに与えられますように。途方に暮れている方々、嘆きや悲嘆のただ中におられる方々に、あなたのお支えとお導きがありますように。
ひとりびとりの心とからだの健康をお支えください。子どもたちをあらゆるわざわいから守り、あなたに愛されている子として、成長を育んで下さい。さまざまな悪からお守り下さい。二学期が始まります。一人ひとりを守り、祝福して下さい。親御さんに助けと知恵とが与えられますように。
一昨日、私たちの群れに属する兄弟が、あなたのみもとに召されました。病のお体から解放されて、今、先に召された奥様とともに、天で安息を得ておられることと信じます。どうか、残されたご遺族の方々に、あなたのお慰めとお導きがありますように、お祈りいたします。
これからみことばの取次ぎをします。聖霊がこの場をご支配下さり、いっさいを導いてください。イエス様の御声を聞き取り、イエス様に導かれる幸いを増し加えて下さい。
これらの願い、祈り、いっさいのことを聖い御心に従って、主を愛する者の益となるように、そしてご自身の栄光に至るように、定め、導いておられるあなたに信頼し、いっさいを御手にお委ねして、私たちの贖い主、御子イエス・キリストの尊き御名によって、お祈りいたします。アーメン。
説教(2026.8.30)
これまで、祭司長たちの「あなたは何の権威でこれらのことをしているのか。」から始まって、ローマへの納税問題、サドカイ人たちによる復活問題と、当時の権力者たちが入れ替わり立ち代り、なんとかイエス様に恥をかかせ、民衆の人気を失わせようと難問や罠を仕掛けてきました。しかしそれらをいづれも、イエス様は見事な、それこそ神の知恵をもって応じられて、それを聞いていた人々、律法学者たちさえもが、感嘆の声をあげました。彼らは、これはとても歯が立たないと悟って、以後、イエス様に議論を挑むのをやめました。ヘタに議論を吹っかけると、返り討ちにあうと、ようやく学んだようです。すると、今度は攻守交替、イエス様のほうから律法学者たちへ質問されました。もちろん、仕返ししようとしたのではなくて、彼らを真の信仰へと導いてあげようとする質問でした。
41節。当時、旧約聖書において、神が遣わすと約束していた救い主キリストは、人々から「ダビデの子」と呼ばれていました。この福音書の中でも、イエス様に向かって「ダビデの子よ」と叫んで病を癒してもらった人々が何人か登場しました。「ダビデ」とは、イスラエル史上、もっとも尊敬されている王で、紀元前約千年頃の人です。で、ダビデと言えば、教会学校のお話にもなる「ダビデとゴリヤテ」の話が有名です。身長3mにも迫ろうという巨人ゴリヤテ、向かうところ敵なしの歴戦の戦士で、イスラエルには誰ひとり、彼に立ち向かう者がいなかった。ところが、まだうら若きダビデは、主への信仰に満たされて彼に立ち向かい、石投げ器と石一つでその巨人を倒しました(第一サムエル17章)。以来、主がダビデとともにおられたので、戦いのたびに名をあげ、ついにはサウル王をしのぐ活躍をするようになりました。「主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」(第二サムエル8:6)主はダビデを用いて、イスラエルに勝利に次ぐ勝利を与えました。そして、ある時、神は、ダビデに一人の子孫を与え、王国と王座をとこしえに堅く立てると言われました(第二サムエル7:12-13,16)。当時、この「ダビデの子孫」こそが、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放し、永遠に続く王国を立ててくれる神の器キリストと信じられていたのです。それで人々はキリストのことを「ダビデの子」と呼んでいたわけです。神が約束された、あの「ダビデの子」と。
それはキリストがダビデの子孫から生まれるという意味では間違いではありませんでした。しかし、キリストを単なるダビデ王の再来、あるいはパワーアップしたダビデ王の再来としか、思っていなかったとしたら、大きな間違いでした。異邦人の帝国を打ち破り、解放してくれる、この世の王の中の最も神に祝福された王の一人としか、思っていなかったとしたら、それは大きな間違いでした。神が遣わす真の救い主キリスト、真の永遠の王国の王は、そういう次元の方ではない。キリストは単なるダビデの子ではなく、ダビデの主、つまりキリストは生ける神の子です、とイエス様は詩篇の一節から教えられたのです。
42-44節。二重鍵カッコの中は、旧約聖書の詩篇110篇1節の引用です。ここの最初の「主」が父なる神のこと。その次に出てくる「私の主」がキリストのことです。ですから、父なる神がキリストに向かって「あなたは、わたしの右の座についていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」と言われたという場面です。「右の座」は権威や力、栄光を表します。これは、キリストが私たちのために十字架にかかって、三日目に復活して、その後、天に昇られて、父なる神の右に着座されたことを表わしています。「敵を足台とする」とは、敵に対する完全な勝利、征服を表します。世の終わりの時、神の、キリストの、人のすべての敵が滅ぼされます。最後の敵である「死」も、滅ぼされます。その時まで、キリストは被造物世界を治めます(第一コリント15:23-25参照)。
ダビデは、その神の右に着座され、世の終りまで治めるお方=キリストを「私の主」と呼んでいる。もしこれが、ただのダビデ王の再来のような、人間の王に過ぎないのだったら、自分の子孫から偉大な王が出ることを、喜びはするでしょうが、「わが主」とは呼ばない。特に当時のような父権の強い時代、自分の子孫のことを「わが主」と呼ぶことは考えられない。ダビデが、「わが主」と呼ぶ相手と言えば、主なる神です。イエス様は確かに系図をたどれば、ダビデに至る「ダビデの子」ですが、しかしただの人間に過ぎない「ダビデの子」なのではない。生ける神の御子でありつつ、ダビデの子孫として生まれた方です。永遠にいます神の子が、時至って、天を蹴って肉体をまとってダビデの系図の中に入ってきてくださった。それがイエス・キリストなのです。ローマ1:3-4「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。」
「 いと高き神の 御子にいませど 」新聖歌 142番
生ける神の御子が肉体を取って人となられたという事実。私たちはこのことを、神話や比喩ではなく、現実のこととして、明確に認識しなければいけません。言葉の上でだけでなく、これが現実にどういうことなのか、リアルに、よく思い巡らさなければいけません。ここにこそ、キリスト教の、福音の核心があると言っても過言ではないと思います。
キリストは、紀元前6-4年頃と推測されますが、確かに肉体をとられて、ダビデの血筋からお生まれになりましたが、実はそれよりはるか昔から、肉体を持たないお姿でおられました。世界のはじめからおられましたし、さらには世界が造られる前から、永遠におられるお方です。ヨハネの福音書1:1-3「初めにことば(キリスト)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」また箴言8:22-31「【主】は、ご自分の働きのはじめに、そのみわざの最初に、わたし(キリスト)を得ておられた。わたしは、大昔に、初めに、大地の始まりの前に、立てられていた。まだ深淵もなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしは生み出された。山が立てられる前に、丘より先に、わたしは生み出された。主がまだ地も野原も、世界の最初のちりも造っておられなかったときに。主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。主が深淵の面に円を描かれたとき、上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、海にその境界を置き、その水が主の仰せを越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。主の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」父なる神とともに世界創造のわざを喜び、楽しんでいたお方としてキリストが記されています。神は、この世界、全宇宙をまったくの無からお造りになったお方です。
日本では、それこそ猫も杓子も神にしてしまうお国柄ですが、聖書の言う神はそうではありません。スケールがまったく違うのです。神と言ったら、巨大な太陽を造り、日々昇らせ、また大空には雲を浮かばせて恵みの雨を降らせ、大地を潤し、豊かな収穫を与えてくださる方。山々も、そこに生えている木々も、そこに住む動物たち、虫たちも、そして私たち自身をも、ことごとくお造りになり、細大漏らさずこれを支配なさっておられ、いのちある一切のものの生と死を支配しておられるお方です。それだけでなく、今、わかっている範囲でだけでも、光の速さをもってして、到達するのに何億年、百数十億年もかかる先にも、まだ巨大な星雲があるという。それらをお造りになった方。また、それこそ、全世界の砂粒とどっちが多いか、というくらい、数え切れないほどの星々をすべて造られるとともに、それらを余裕で入れる大宇宙をもお造りになった方。そしてその無数の星々を一つも漏らさず、支配しておられる方。地球から何億光年先にある星の砂粒(あるとして)一つの動きさえ、知っておられ、支配しておられるお方です。キリストは、三位一体の第二位格の神として、それらをお造りになり、今も支配しておられる全能の、全宇宙の神でいらっしゃいます。
そのお方が、今から約二千年前に、ダビデの子孫として肉体をまとって人間となられ、地上にお生まれになったのです。そして人々とともに住まれたのです。それも、貧しい家庭に生まれ育たれた。そしてそして、もっともっと驚くべき事実は、この広大な大宇宙を造られた方が、私たちの罪を背負って、私たちをお救い下さるために、私たちの身代わりに十字架にかかってくださったということです。また父なる神は、私たちに罪の赦しを与え、お救い下さるために、その、すべてにまさって尊い御子を世にお遣わし下さったということです。
そして、御子にとって何よりも辛かったに違いないのは、永遠の愛のうちに一体である父なる神から、私たち罪人の身代わりに御怒りを受け、呪われた者となって、断ち切られるということ。それは私たち人間には想像を越えている、御苦しみだったでしょう。そしてそれは、もちろん、父なる神にとっても、何よりも心を引き裂かれる、痛く、辛いことだったに違いありません。最愛の御子を、私たち罪人の代表と見なして、私たちのすべての罪に対する裁きとして、正義から発する御怒り、呪いを、十字架の上の、最愛の御子に注ぎ出さなければならなかったのですから。その父なる神の痛み、苦しみたるや、いかばかりだったことか。すべては、私たちを愛してくださったがため。三位一体の神の、私たちに対する深いご愛をお示しになるためだったのです。
今から約二千年前に、ゴルゴダの丘で十字架にかかられたお方は、一体どういうお方だったのか。単なる博愛主義者や、ひとつの宗教の教祖というのではありません。私たちクリスチャンは、あの十字架にかかられたキリストが、正真正銘、永遠におられる神の御子、全宇宙をお造りになり、支配しておられる方だと信じる者です。無数の星々からなる大宇宙をさえ、一言で消すことがおできになるお方が、ただ私たちを愛して、私たちをお救い下さるために、十字架上で死ぬことを選び取ってくださり、耐え忍ばれたのです。
キリストが、生ける神の御子だということを、私たちは何の感動もなく口にするようになってはいないでしょうか。この事実を過小評価してしまってはいないでしょうか。救われた喜びが失われたというときに、この現実をハッキリと認識するときに、喜びが回復するのかもしれません。
神は私たちに従順を求められますが、それは力づくで従わせる、支配するということではありません。それなら簡単です。しかし神は、そうではなくて、ご自身の私たちに対するご愛に気づいてほしいと願っておられるのだと思います。私たちが、神がどれほど自分を愛しておられるかに、本当に気づいて、それゆえ、心から神に信頼して、自分から進んで神にお従いするようになることを望んでおられるのだと思います。それが、神が望んでおられる従順、それが神の国、神の支配ということなのだと思います。そのために、御使いでもほかの何物でもなく、正真正銘、生ける神の御子であられる方ご自身の十字架の犠牲によって、私たちを救われるという道を定められたのだと思います。他の方法によっては、この神のご愛は表すことができないからです。
生ける神の御子キリストは、十字架にかかられて、三日目に復活されて、そののち、天に昇り、父なる神の右の座につかれました。王座に着座されました。今も、天におられる神の右に座しておられるキリストを、心からあがめて、その御愛を思って心から信頼し、御言葉への従順をお捧げしていけますよう、聖霊の助けを願いたいと思います。
(お祈り)