いのちの源、万物の創造者である神は、和解を呼びかけている。
人間は、関係の生き物であると言われることがあります。人生相談で最も多いのは人間関係の相談とも。関係がうまくいっているとうれしいし、うまくいっていないと、落ち込んだり、夜も眠れなくなったりするかもしれません。夫婦関係、親子関係、職場の関係…。最近では、人間関係のスキルを教える本や動画もあるようです。今日はそういう話ではないのですが、人間にとって、関係というのは、非常に重要な意味を持っているのは、確かでしょう。そして人間関係も、もちろん大切ですが、人間にとって最も根本的な、重要な関係は何かというと、それは神との関係だと聖書は教えています。もし、全世界、万物をお造りになった神、他ならぬ自分の造り主であられ、いのちを与えてくださった神がおられるとしたら、その方との関係はいったい、どうなっているのだろうか…。おそらく、聖書が教えてくれなかったら、そんなことを心に留める人はほとんどいないのではないか、と思います。聖書によると、神は私たちを愛して、愛の関係のうちにお造りになりました。そしてその神は、ご自身の存在に気付いてほしいと望んでおられます。ですから神は、沈黙しておられるわけではありません。
神はご自身のことを知らせるために、人類に二冊の「聖書」を与えたと言われます。一つは自然や人の営みなど、神が造られた世界。もう一つは、いわゆる書かれた「聖書」です。これらによって、神はご自身を証ししておられる。自然の偉大さ、息をのむような美しさ。草花や樹木から、昆虫、動物、そして人間の隅々に至るまでの精緻な構造、そこにあらわれている知恵というものに、人々はしばしば感動を覚えます。世界に存在するあらゆるものは、先入観なしに事柄自体を見ると、とても偶然の産物とは思えないのではないでしょうか。ノーベル章の山中伸弥教授は、学問的に欠陥だらけの進化論に対してハッキリと懐疑的で、むしろ人体の臓器一つとっても、神が造られたとしか思えない、と言っています。偏見なしに見たら、そこにはどう考えても、あきらかに意図して造られた構造があると。そしてそこに込められている意図には、いのちに対する慈しみを、だれしも感じるのではないでしょうか。そして書かれた方の「聖書」には、確かに神が知恵をもって世界を造り、万物を造り、いのちを慈しんであらゆる生き物を造られたと教えています。
そして、数えきれないほどの生き物の中でも、神は人を特別に愛する存在として、お造りになったと言います。神は、人にご自身の存在に気付いて、ご自身の愛に応答して生きてほしいと願っておられる。としたら、今の人間との関係を悲しんでおられるのは、神の方なのかもしれません。人間の方はそんなこと、お構いなしに生きていますが…。今日は聖書から、神との関係について、
現状はどういうことになっているのか、
神はそれに対してどうされたか、
そしてその神がなさったことに対して、私たちが応答するときに、どういう変化が起こるのか、をお話したいと思います。
今日の聖書箇所には和解という言葉が、繰り返されていました。神と人との関係は、和解が必要な状態ということです。最初の人アダムとエバが、神に罪を犯して以来、人類をはじめ、すべての被造物は、呪いのもとに置かれたと聖書は伝えています。よく、神がいるなら、どうしてこんなことが!という声を聞きますが、それはこういう理由だったのです。罪が、世界を呪いの下に、閉じ込めてしまったのです。先ほど、神が造られた世界の素晴らしさを挙げましたが、他方、神の呪いを証しするものも、この世には見られます。最初に神が造られたときには、一点の欠けもない完全な自然でしたが、罪が入って歯車が狂い始め、ときどき自然災害を引き起こすようになりました。それでも憐れみ深い神は、人間が生きていくために必要な多くの恵みを残しておられますが。しかし特に昨今は、異常気象や大規模地震など天変地異のようなことが、頻度、規模ともに、度を増しているように感じられないでしょうか。オゾン層の破壊、海面の上昇など地球規模での環境変化も、人災だか天災だか、そのハイブリッドだか、わかりませんが、進んでいると言われます。
また人の良心も、人が平和な営みを送れるようにと、残されていたものですが、見聞きするニュースは、心を痛めずにはいられない、耳を疑うような悲惨なことがあふれています。人間の良心がなくなっていくのではないかと、末恐ろしくなります。不法や偽りがはびこり、正義や秩序が疎んじられ、まるでタガがはずれたように、世は混乱の度を増していきつつある。自然の秩序が崩れつつあり、人間社会も崩れつつある。聖書には、神の御怒りが天から啓示されているとありますが(ローマ1:18、新約p. 290)、そんなことも思わされる時代です。神は人を愛しているのではなかったのか?そうです。親が、愛する子どもが悪いことをしたときに、怒ってくれるように、神は人間を愛しつつ、だからこそ、御怒りを示しておられる。もちろん、そこから救い出される道を備えておられるからです。滅ぼすためではなく、生かすため。永遠のいのちへと向かわせるためです。
世に呪いをもたらしたのは、罪でした。神は聖なる方、義なる方ですから、罪をそのまま放っておいて、ナアナアで受け入れることはできません。光と闇がぶつかったら、闇が消えてしまうように、神が罪あるままの人間を受け入れようとしたら、人間は神の聖さに耐えきれず、消滅してしまうでしょう。それゆえ神は、罪を取り除くことを決意されました。どうやって?身代わりを立てることによってです。身代わりって、だれがそんな役を引き受けるのか?だれかに押し付けるのか?いえ、神の最愛の御子が、自らその務めを引き受けてくださったのです。生ける神の御子キリストが、父なる神の御心に従って「彼らの罪は、わたしがすべて引き受けます。彼らの罪に対する刑罰を、わたしに下してください。」と自ら身代わりを引き受けてくださいました。それがあの十字架です。罪のない方が、私たちのために罪ある者とされて、刑罰を受け、代わりに罪ある私たちが、罪を取り去られて、義なる者とされて、神と和解する道が開かれたのです。和解の道は用意されました。あとは、私たちにその気があるかどうか、です。応じるなら、神との和解が実現します。神との関係が回復します。呪いから解放されるのです。
神と和解し、関係が回復した結果、何が起こるでしょうか。17節を見ましょう。「だれでもキリストのうちにあるなら」キリストの十字架を自分のためと信じるなら、という意味です。そうすると、ここでは二つの変化が起こると言われています。
「その人は新しく造られた者です。」私たち自身が、新しく造られた者になる。まったく新しい被造物となる。と言っても、羽が生えたり、スーパーマンになったりするわけではありません。外見は変わらないかもしれません。ここで言っているのは、内面のことです。私たちの心が新しく造り変えられたということです。どんなふうにか、と言うと、神に対して死んでいた状態、神と何の交流もなく、無関係に生きていた状態だったのが、神に対して生きる者となった、神と交わり、神に信頼して、神のことばによって生きるようになった、ということです。これが、まさしく新しく造られたといわれる変化です。神を信じただけで、新しく造られたなんて、大げさだと思うでしょうか。そうではありません。これは実は、人に羽が生えて、空を飛べるようになるよりも、はるかにありえない、大きな変化なのです。まさしく「新しく造られた」という表現がふさわしいのです。
「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」キリストによって、神との関係が決定的に変わったとき、私たち自身だけでなく、私たちを取り巻くすべてのもの、すべてのことが、新しくなります。神との関係の回復は、自分とすべてのものとの関係も変えるのです。というのは、呪いをもたらした元凶である罪が処分されたのですから、キリストを信じる者にとって、もはや呪いはありません。キリストを信じる者は、呪いの下から救い出されて、恵みの下に移されたのです。あるのは、ただ神の一方的に注がれている愛のみ。恵みのみ。そういう世界に生きる者とされました。これは、クリスチャンに苦しみや試練がないという意味ではありません。クリスチャンも病気になるし、ケガもするし、つらいことを経験します。クリスチャンだからコロナにならない、ということはありません。外から見たところは、ほかの人と同じように、いろんなことを通らされる。けれども、その意味が決定的に違ってくるのです。キリストが、呪いをもたらす元凶である罪を処分したので、あらゆる苦しみ、試練はもはや呪いではなくなったからです。
キリストを信じる者にとっては、すべてのことがーうれしいことも、悲しく、苦しいことも―相働いて、益となると聖書は約束しています(ローマ書8:28、新約p. 302)。また、それで「すべてのことについて、感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたに望んでおられることです。」(第一テサロニケ5:18、新約p. 401)とも、言われています。苦しいこと、つらいことがあったとしても、それは決して呪いではなく、益となるために、祝福となるために与えられているものと。もちろん渦中にあっては、そう簡単に割り切れるものではありませんが、神との関係が回復している以上、実際はそうなのです。神との関係の回復は、すべての事柄に決定的な違いをもたらすのです。神との関係の回復は、死さえも、変えてしまいます。罪がもたらした悲惨の最たるものは死です。理屈ではなく、現実として、死は人々を支配しています。これも、外から見ている限りでは、クリスチャンもほかの人と同じように死んでいきます。しかし、その意味が決定的に違います。聖書に、死のトゲは罪であるとあります。死に苦しみ、苦痛をもたらすトゲは、罪だというのです。
しかし、キリストの十字架によって、トゲ(=罪)が取り除かれたので、信じる者にとっては、死はもはや呪いではなくなり、苦しみ、苦痛をもたらすものではなくなって、天の父なる神のもとへの帰郷に変わりました。霊の父である神が待っておられる魂の故郷、安息に帰ることを意味するものとなりました。イエス様は仰いました。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25、新約p. 201)と。外から見ている限りでは、わかりませんが、当事者にとって死の風景は、ガラリと一変したのです。呪いの下にある世界では、人は罪をもって生まれ、罪をもって生き、そのままでは罪をもって死に、そして罪をもって神の前に出ることになります。そのときに対面する神は、裁き主としての神です。神は正しい方ですから、私たちの罪に対して正しくお裁きになるでしょう。しかしキリストを信じたなら、罪を取って頂いた状態で、神の前に出ることができます。そのとき対面する神は、私たちを愛してやまない父なる神です。「 帰れや 帰れや 帰れやと 主は今 呼び給う 」新聖歌 176番最後に20節を読みます。「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。
ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」神に対して不信の罪を犯したのは、人間の方です。呪いの下に置かれて、苦しんでいるのも人間の方です。しかし人間の方は、神との関係など、気にも留めずに過ごしているようです。そんな人間の今の苦しみと、そして行く末を思って、この上ない犠牲を払って和解を用意し、和解するよう呼びかけているのは、神の方です。関係が壊れたときに、心を痛めるのは、愛している方だからです。ここでこれを書いたパウロは、神が懇願しておられるようだと言います。神が払われた犠牲の大きさは、神の和解にかける思いの強さがあらわれています。神は、かりそめや、お戯れで、宗教ごっこをしておられるのではありません。神は真剣です。神の方が、この上なく尊い犠牲を用意し、和解を呼びかけ、懇願さえしておられます。頼むから、私の和解を受け入れてくれるように、と懇願せずにはいられない神…。聖書は、今もこの懇願しておられる神が、あなたの応答を待っていると告げています。