礼拝説教要旨 2022年10月23日
ただひとりの神を愛す
(出エジプト記 20:3)
今日の要点

主なる神の比類なき愛を知り、主を、主だけを自分の神として愛する。

はじめに:十戒は祝福!

いよいよ十戒の第一の戒めに入ります。「戒め」と言うと、自分を律してくれる良いものと、ありがたく受け取る人もいれば、他方、何か敬遠したくなる人もいるかもしれません。しかし主は、もし、彼らイスラエル人がこれを守り、行うなら、彼らは神にとって宝となると、祝福として与えられたものでした。十戒は祝福なのです。元々神に似せて、神のかたちに造られていた人間が、これによって罪を洗い落とされて、本来の姿を回復し、その光を輝かせるようになる、ありがたい神ご自身の、癒しの言葉、祝福の言葉です。それも、十戒を与える前に、まずエジプトで苦しみにあえぐ彼らを、神は大いなる御力をもって救い出してくださっていました。その救いを通して、まず神との恵みの関係、愛の関係に入れられていることを、彼らに体験させてのちに、さあ、だから、このわたしの言葉に従ってくれるように、と十戒を与えたのでした。2節の序言は、そのことを物語っていました。しかも同時に、この後神が与える律法には、赦しの規定がちゃんとある。彼らは精一杯、十戒を守ろうとしても、生まれながらの罪のゆえに、できないことも、神はご存じ。だから神は、赦しを用意しておられる。神のもとには赦しがある。

義の訓練を施しながら、失敗してもちゃんと受け止める用意もしてある。いわば、サーカスの綱渡りの練習で、すぐ下に安全なネットを用意した上で、ロープを渡る練習をするようなもの。失敗しても大丈夫という安心感の中で、精いっぱい落ちないように、神の言葉に沿うように努力する。それでいい。それでいいから、この十のことばを大切に思って、守る心を失わないでくれるように。神の御思いを想像することは、恐れ多いことですが、そんなことを思います。そんなふうに、祝福として与えられた十戒の、今日は第一戒を見ていきます。

①十戒の読み方:字ヅラだけでなく

最初に、十戒の読み方について。ウェストミンスター大教理問答 第99問にいくつかあげられていますが、今日は三つだけ。

律法は霊的なもので、行いだけを規定するのでなく、思いや感情など内面をも規定するもの。たとえば、第六戒「殺してはならない」という戒めは、実際の殺人だけでなく、心の中で憎むことも禁じているという具合。福音書でイエス様もそのように適用しておられました(マタイ5:21以下、新約p. 7)。

義務が命じられている場合には、その反対の罪が禁じられている。また罪が禁じられている場合には、その反対の義務が命じられている。たとえば、先ほどの第六戒では、殺すことを禁じているだけでなく、反対にいのちを尊重することを命じていると。たとえば、道に倒れている人がいたら、救護する義務があるというふうに。

一つの罪のもとに、同じ種類のすべての罪が禁じられ、同様に一つの義務のもとに、同じ種類のすべての義務が命じられている。たとえば、第五戒「あなたの父母を敬え」では、父母だけでなく、おじいちゃん、おばあちゃんも敬うことが求められていると。以上、十戒は字ヅラだけ読んで、額面だけ守っていればいいというのでなく、その言葉を語られた神の御心を思い巡らし、意図を汲み取るようにします。それで今、②の原則に照らして、第一戒に向き合ってみると、文字通りには、主のほかに、ほかの神々があってはならない、とほかの神々の排除を命じています。そこで一歩踏み込んで、どうしてそう命じているのか?といえば、それは主だけを、神として礼拝するようにとの積極的な義務が命じられていることになります。以下、ウ大教理問答を手掛かりに、第一戒で禁じられている罪、そして求められている義務について、いくつか見ていきます。

②禁じられている罪:二心でなく、この方だけを愛する

読んでの通り、主なる神以外の神々をもってはならないということですが、これには二つの意味があります。一つは、主なる神に代えて、ほかの神を自分の神とするということ。キリストを捨てて、他の神々を自分の神とすることです。それからもう一つは、主なる神を神として信仰するけれども、それとともにほかの神々にも手を合わせるということです。前者はわかりやすいですが、後者はくせ者です。内村鑑三はその危険を指摘しています。「神を信じると言いつつ、第二、第三の神をも認める。ここに危険は存する。信仰の崩壊は実にここから始まるのである。…いやしくもこの点において譲るは、信仰の根底を敵手に渡すに等しい。」先の世界大戦時、日本のキリスト教会は、実にこの点で罪を犯しました。神をあからさまに否定せよと言うのでなく、ほかの神とすげかえろと言うのでもなく、キリストはキリストで信じていていいから、それはそれとして、神社にもお参りをして日本に忠誠を示すのだと言われ、時のキリスト教会の代表が伊勢神社にお参りしたという、歴史的な汚点を残しました。

こうして信仰の根底を敵の手に渡した日本の教会は、もはや自らサタンの手先となって、率先して近隣のアジアのクリスチャンたちに神社参拝を説得し、強要するという、信じられない大罪を犯すに至ったのでした。真の唯一の神をあからさまに否定しなくても、並べてほかの神々を置くということは、信仰の根底を崩壊させる致命的な罪。イエス様を信じているから、イエス様から離れるわけじゃないから、ほかのものにも手を合わせても別にイイじゃないか、などということは、サタンの手に下る第一歩なのだ、とはっきりと弁えておく必要があるでしょう。第一戒の意義は極めて重大です。神は二心でない、真実な関係を求めておられるのです。

③求められている義務:人格的な関係の中で、主おひとりだけを愛する

続いて、第一戒で求められている義務について。ウ大教理問答 問104には「神が唯一のまことの神・私たちの神であることを知り、認めること。それにふさわしく神を礼拝し、栄光を帰することである。」とあります。なるほど、なるほど。クリスチャンなら、これに異を唱える人はいないでしょう。では、もう少し具体的に、どのように神をふさわしく礼拝し、栄光を帰するのかと言うと、「それは、神を心に留め、深く思い、覚え、大いに尊び、敬い、たたえ、選び、愛し、慕い、恐れることによって、また神を信じること、神に信頼し、望み、喜び、楽しむことによって、…」と続きます。この文章を読んで思うのは、生ける神をふさわしく礼拝するということは、あれをしたこれをしたと、何かをすると言うよりも、神との人格的な関係を尊び、喜ぶということではないかな、ということです。生ける真の神をふさわしく礼拝すると言うのは、神社や仏壇に手を合わせないというだけではないし、日曜日に礼拝を守ることだけでもない。何よりもまず「神を心に留め」ること。

それも、序言で見たように、私たちを愛し、御子イエス・キリストの十字架の犠牲を払って、罪と滅びから救い出してくださり、ご自身との恵みの関係に入れてくださったお方として、日々、心に留めることです。いつもこちらの落ち度を見つけたら罰を下そうと、見張っている神ではなく、恵みの神としてこのお方を日々、心に覚えて歩むこと。また全知全能の天地の造り主なる神に愛され、キリストが造り出してくださった、神との恵みの関係―それは私たちの行いによって、決してヒビが入ることのない関係です―に入れられているという事実を、自分の人生の土台として歩むことです。それから「神を信じること、神に信頼し、望み…」。順序が前後しますが、ウ大教理問答の、第一戒で禁じられている罪のリストに「不信頼、絶望」が挙げられています。神に対する不信頼や、絶望することも罪だと。考えてみれば、神を信頼しないで、絶望するということは、神が信頼するに足りないと言っているようなもの。神に当然帰すべき栄光を帰していないということなのでしょう。

これも「それは不信仰という罪だ!」などと言われて、何か自分が責められているように取ると「だってああだし、こうだし」と言い訳も出てくるでしょうけれども、よくよく考えてみると、これは逆に希望を与えてくれるものではないでしょうか。絶望するのは罪だということは、神は、希望を持て、持っていいのだ、と命じているということです。ということは、神は必ず、どんなところからでも祝福を与える用意があると保証しておられると言うことでしょう。私たちの側が神に信頼することをやめてしまったり、神がさしのべてくださっている救いの御手を、拒んでしまったりしない限りー積極的に信じているとは言えなくても、ただ拒まないでいる限りであってもーくすぶる燈心を消すことをなさらない神は、そんなくすぶるばかりのような信仰・信頼にも応えて、祝福の泉を湧き出させてくださる。慰めを用意しておられる。たとえ自分の心が自分を責めてもです(第一ヨハネ3:20、新約p. 469 )。神は私たちの心より広く、その御思いは、私たち人間の思いよりもはるかに高く、深いのです。神は、私たちには考えもつかない大逆転を用意しておられないなどと、誰が言えるでしょうか。

神は、それは虫のいい、自己中心な思いではなく、それこそがわたしに栄光を帰すこと、わたしを礼拝することなのだから、臆せずにわたしに信頼し、望みを置きなさい、と仰っておられるのです。ここを忘れてはいけません。私たちの神は、何と憐れみ深い神でいらっしゃることでしょうか。そして神を喜び、楽しむこと。「主にあって、いつも喜んでいなさい」と新約聖書に何度か出てきます。もちろん、普通の歩みをしているときは、恵みの神との揺るがない愛の関係―これが永遠のいのちですーに入れられていることを忘れずに、喜びをたたえていたいものです。とはいえ、人生、悲喜こもごも。クリスチャンになっても、悲しみ、嘆きの谷を通ることが、ないとは言えません。そんなとき、感情をおさえて、無理やり喜べなどと言っているのではありません。泣きたいときは、泣いていいのです。泣いた方がいいのかもしれません。そんなとき、主もまたともに涙しておられることでしょう。ただ、根底には、どんなときにも喜ぶに足る恵みが与えられている。良い時ばかりでなく、人生のどん底にあるときでも、喜ぶ価値のある恵みが与えられている。これもまた真実です。

やがて落ち着きを取り戻し、そこに立ち返ることができたら、静かな喜びを回復することができるのでしょう。「 父と共に しらす君に 栄えの冠を 捧げまつれ 」新聖歌4番第二戒以下、他のどれかの戒めを破るときは、必然的にこの第一戒をも破っている、と言われます。そういう意味でも、この第一戒は最上位、最重要な戒めに位置付けられます。厳密には、誰もこの第一戒を完璧に守ることのできる人はいないと思いますが、神は御子キリストによる全き赦しをご用意くださっています。私たちのために救いとなってくださった御子イエスさまを心から感謝し、あがめます。そのうえで、というより、だからこそ、聖霊の助けを頂いて、少しでも主が望んでおられるところに近づかせて頂きたいと願います。そこで最後に注目したいのは、3節文頭「あなたには」との言葉です。ほかの民はいざ知らず、あなたには…。先週、十戒の最初に序言があることの意義を学んだところでも触れましたし、今日も何度も触れましたが、神は、私たちにとって、恵み深いお方であり、尊い救いを与えてくださったという、この事実を土台として、この第一戒も与えられています。私たちは、神に対して、恵みの関係、愛の関係に入れられています。

その「あなたには」です。神の特別な恵みに、特別なご愛顧にあずかったあなたには。あなたを愛し、あなたを永遠にご自分の民とし、ご自身が永遠にあなたの神となられるために、最愛の一人子、御子イエス・キリストをさえ、十字架に渡した、その尊い救いを受けたあなたには、決してほかの神々があってはならない。ただわたしだけを、あなたの神として、愛してくれるように。そんな、神の、私たちに対する熱い思いが感じられるように思います。冷たく、いかめしい戒めというより、神の愛の言葉とさえ、言えるのではないでしょうか。これほどに私たちを愛してくださったお方を捨てて、他の神々に行くことや、この方と並べて、他の神々を神とすることなど、人として、決してあってはならないこと、と改めて心に刻ませて頂きたい。そしてこの戒め、というより、招きにお応えして「あなたがくださった聖霊の助けを頂いて、私は、あなただけを、私の神、私の救い主として、愛します。」と応答させていただきたい。たとえ結果的に、ペテロのように失敗することがあったとしても、結果は主はすべてご存じの上で、そんな私たちの精一杯の信仰告白を、微笑んで受けてくださるのではないでしょうか。