礼拝説教要旨 2022年3月20日
光があった
(出エジプト記 10:21~29)
今日の要点

教会は、神の臨在しておられる所であることを知り、神との交わりを大切にする。

あらすじ

次々と下るエジプトに対するさばきも、いよいよ九番目となります。第3サイクルの3番目、予告なしにいきなり臨みます。それはどんな自然現象とも違う、まったくの超自然的な神のわざでした。21節「【主】はモーセに仰せられた。『あなたの手を天に向けて差し伸べ、やみがエジプトの地の上に来て、やみにさわれるほどにせよ。』」これを、向こうで時々起こる砂嵐によって、太陽光が届かなくなるほど、砂が空中いっぱいに覆ったとする説があります。やみにさわれるほどとは、その砂にさわれるほどということと。しかし、それならそうと書きそうなものですし、23節には自分の場所から立つこともできないとあり、これは家の中で立つことができないほどの濃い闇のことと思われるので、その解釈は違和感があります。ここはそのまま、超自然的な濃い闇と取りたいと思います。それにしても、「さわれるほど」の闇とは、いったいどういう闇でしょう。目が慣れてきても、1センチ先も見えない。墨でベッタリ塗ったような闇。まとわりつくような闇…。聖書では、闇は神のさばきを表すものともされます(マタイ22:13、第二ペテロ2:4,17等)。

これは、当時、エジプトで最も偉大な神として崇拝されていた太陽神ラーに対するさばきでもあったと言われます。パロは「ラーの子」と呼ばれていました。モーセはこれまで通り、主の仰せに従いました。22-23節「モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真っ暗やみとなった。三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。」人は真っ暗闇の中におかれると、不安になるものでしょう。つい最近も、大きな地震があって一部地域では停電になりましたが、これがもし、太陽が暗くなったらどうでしょう?このときは、それ以上の闇が三日間続いたというのです。結果的に三日間ですが、そのときはいつまで続くのか、わからないわけで、今までの自然災害とはまた違った恐れがパロをはじめ、エジプト人たちを襲ったことでしょう。しかし、イスラエル人の住む所だけには、光があったとは、印象的です。ドップリと深い闇の中に光が煌々と輝くイスラエル人居住区。闇が超自然的であったように、この光も超自然的なものだったでしょう。これは主の臨在を表していると思います。あたかも、神の国の前触れのようです。

黙示録21:23(新約p501)の光景が浮かびます。(神の)都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。また、黙示録22:5(新約p502)も。(神の都には)もはや夜がない。神である主が彼ら(神のしもべたち)を照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。私たちの心のうちも、主イエス様が太陽のように煌々(こうこう)と照らしていてくださいますように。心の中心にいつもイエス様をお迎えしていましょう。さて、パロです。このまま、いつまでも太陽が姿を現さず、暗闇が続いては、生きとし生けるものはみな、死に絶えることは明らか。例によって、悔しくて歯ぎしりしながら、やむなくモーセを呼びました。24節「パロはモーセを呼び寄せて言った。『行け。【主】に仕えよ。ただおまえたちの羊と牛は、とどめておけ。幼子はおまえたちといっしょに行ってもよい。」少しでも値切ろうとする客のように、家畜は置いていけと粘るパロ。意外にセコイなあ、と感じるかもしれませんが、考えてみれば、先の疫病と雹でエジプト人の家畜がほぼ全滅していたということがあったからでしょう。

悔い改めることなく、助かることだけを求めるパロ。そうは問屋が卸しません。25-26節「モーセは言った。『あなた自身が私たちの手にいけにえと全焼のいけにえを与えて、私たちの神、【主】にささげさせなければなりません。私たちは家畜もいっしょに連れて行きます。ひづめ一つも残すことはできません。私たちは、私たちの神、【主】に仕えるためにその中から選ばなければなりません。しかも私たちは、あちらに行くまでは、どれをもって【主】に仕えなければならないかわからないのです。』」家畜をパロのために置いていくどころか、パロよ、あなたが私たちに与えなければなりません、と逆襲されました。これは、イスラエルの民がエジプトで奴隷として酷使されていたことに対する正当な報酬として、パロがイスラエルに払わなければならない、ということでしょうか。聖書は、けっこう、労働者の賃金について、ちゃんと要求するべきだとする箇所があります。前に創世記で見たラバンのもとで長年、タダ働き同然で使われていたヤコブのところでもありました。神は、立場の弱い労働者にタダ働きをさせて懐を肥やそうとする資本家を戒めます。神は、立場の弱い人たちの正当な権利を守る方です。

ですからモーセは、羊や牛を置いて行け、というパロの不当な要求に対して、ひづめ一つ残しません、とピシャリと言い放ちました。ガメツイようですが、これはパロに対するさばきだから。普通ならモーセは、困っている人には、いくらでも分け与える人です。モーセの言葉にカチンと来たか、パロはついにブチギレました。27-28節「しかし、【主】はパロの心をかたくなにされた。パロは彼らを行かせようとはしなかった。パロは彼に言った。『私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。』」交渉決裂。けんもほろろに要求を却くだされても、他になすすべもないパロは、ただ逆上して、今度、会ったら命はないものと思え、とすごんで見せるのが、精いっぱいでした。しかし、鬼の形相をしたパロの怒りや脅しも、今や、主がともにおられることを知ったモーセには通じません。29節。「モーセは言った。『結構です。私はもう二度とあなたの顔を見ません。』」全く動じないモーセになっていました。なお、10章はここで区切られていますが、この箇所はこのあと11:4につながると思われます。

11:1-3はカッコでくくる挿入節と見ます。そして11:8でモーセは、怒りに燃えてパロの前を出ていきます。そして最後には、パロの方から、もう一度モーセを呼び寄せることになります(12:31)。「主はパロの心をかたくなにされた」とありました。私たちも、神の一方的な恵みがなければ、悔い改めることがなかったことを、再度、思わされます。ただただ神の憐れみを受けさせて頂いたことを感謝し、御名をほめたたえたいと思います。エペソ2:8、新約p374あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。「光に歩めよ」新聖歌335番この箇所では、エジプト中が闇に覆われる中、イスラエル人の住む所には、光があったという光景が印象的です。この超自然的な光は、神の臨在を表すと思いますが、今日も、キリストを主と信じる者たちの集まりー教会―に、主はご臨在くださっていると聖書は教えています。第一コリント3:16、p321あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。またエペソ2:21-22、新約p375

2:21 この方(キリスト)にあって、組み合わされた建物(信じる人たちの集まり=教会のこと)の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。実感があるかどうかは別として、驚くべきことに神の御霊が私たちの間におられる、と聖書は教えているのです。神の御住まいと言うのです。神が住んでおられると!それも、この時のイスラエル人が、特別に聖人君子の集まりだったわけではなく、私たちと同じ普通の、生身の人間でしたが、ただただ神の一方的な選びによって、神の御霊がそこにご臨在くださっていたように、です。教会と言うところは、単なる人の集まりというだけの場所ではない。そこには、神が、キリストが、御霊が、住んでおられる場所なのです。何という恵みでしょうか。またなんと厳粛なことでしょうか。それゆえ、教会は聖なるところ、汚してはならないところです。聖霊を欺いたアナニヤとサッピラは裁かれました(使徒5:1以下、新約p235)。使徒ヨハネも言います。第一ヨハネ1:5-6、新約p4651:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。

これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。闇の中を歩んでいるなら、神と交わりがあると言っていても、嘘っぱちだと。手厳しいようですが、罪を全く犯すな、と言うことではありません。神はもちろん、すべてをご存じです。続きがあります。7節しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。ここで私たちが光の中を歩むとは、きよい良心を保って歩むことだと思います。罪を犯さないのではありません。ときに失敗し、つまずくことはあります。そのときは、神に告白し、悔い改めることができるのです。そうすれば、御子イエス・キリストの血潮が、すべての罪から私たちをきよめてくれると言っているのです。9節もあわせて読みましょう。1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

御子の血潮と、私たちが自分の罪を言い表すこと。この両方そろって、神の赦しが与えられ、私たちの良心が保たれるのだと思います。神との交わりには、きよい良心が不可欠です。心にやましいことがあっては、神の御前に出ることはできません。アダムのように、隠れようとするのです。無意識のうちに、本能的に、神のさばきを恐れて。しかしキリストが、そのさばきを私たちの身代わりに受けてくださったので、信じた者は、悔い改めるなら、さばきを恐れることなく、良心の平安をもつことができます。それが「光の中を歩む」ということだと思います。そうするときに、私たちは全き心をもって、神の御前に出ることができ、神との交わりをもつことができます。もしかしたら、いつまでたっても抜けない悪い部分があるかもしれません。それも大丈夫です。ありのままに告白し、悔い改めて、―何度でも、何十度でも悔い改めてー神の赦しを確信して、神とともに歩むことができるのです。それゆえキリストに従う者は、いのちの光を持つと言われます。ヨハネ8:12、新約p192「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」「いのち

とは、いのちの源である神とともにある状態のことです。神がともにおられる、また神とともにあるので、どのような状況にあっても救いがあるのです。神はご自身の愛する者たちのために、ご自身を力ある救い主として、また真実な救い主として現したいと願っておられると思います。だから心を尽くして、神に望みを置きましょう。私たち自身に力がなくなっても、神には常に力がある。私たち自身には先が見えなくても、神は常にすべてを見通しておられる。私たち自身には望みが見いだせなくても、神には常に希望があります。神は全知全能であられ、全宇宙を造り、今も支えておられる方であられ、そして私たちを御子をくださるほどに愛してくださっている方だからです。このお方が、私たちの間に住んでおられるのです。この神を敬い、光のうちを歩んで神との交わりを大切にしましょう。