悔い改める心は神の恵みの賜物。キリストの赦しを信じて、御前で率直な心で悔い改める。
エジプトに下る第八のわざわいになります。第3サイクルの2番目で、時間を指定せず、単にパロのところに行け、と命じる形式で始まります。前に見たように、主は、パロ相手に手こずっているのではなくて、あえて彼とその家臣を強情にしたのだと告げます(1節)。それは、前の章で
主に対して高ぶっているパロに御力を示すため、
全地に告げ知らせるため、と語られましたが(9:16)、ここで
子々孫々に語り聞かせるため、が新たに加えられました。「…わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり…」(2節)この言葉は、齢80を数えるモーセにとって、ありがたさもひとしおだったでしょうか。主は、モーセたちの代だけでなく、はるか遠く子々孫々に至るまでも、ご自身の民として祝福しようとしてくださっている。この主の恵みが、とこしなえに、子々孫々にとどまりますように、主がいついつまでも、彼らとともにいてくださいますように、と胸を熱くしたことでしょう。実際、イスラエル人は、代々、この出来事を語り継ぎます。この出エジプト記だけでなく、詩篇にも歌われていますし、また後に過ぎ越しの祭りとして、この出来事を覚える祭りが定められて、代々、語り継がれ、それは千数百年後のイエス様の時代にも守られていました。そんな主の励ましを受けて、モーセはアロンとともにパロのところに行って、告げました。「ヘブル人の神、【主】はこう仰せられます。『いつまでわたしの前に身を低くすることを拒むのか。わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。…』(3節)
主の言葉を取り次いだ言葉とはいえ、まるでパロを叱責するような口ぶりです。かつて、主に召されても、パロを恐れて「無理です。どうか誰かほかの人を遣わしてください。」としり込みばかりしていたモーセの姿は、いつのまにか消えていました。主がともにおられることを、繰り返し体験して、恐れが消えたのでしょう。ところで、ここで「わたしの前に身を低くすることを…」とあります。ともすると、見失いがちな視点です。私たちは人に対してどうこうということばかり考えてしまいがちかもしれませんが、静まって、主の前にどうなのか、思い巡らす必要があるかもしれません。箴言29:25、旧約p1097人を恐れるとわなにかかる。しかし【主】に信頼する者は守られる。自分を見失わないためにも、縦軸を持つ、また天に錨をおろすことは有益なことです。さて、モーセは続けます。「…もし、あなたが、わたしの民を行かせることを拒むなら、見よ、わたしはあす、いなごをあなたの領土に送る。…」(4節)「いなご」と訳されたものは、トノサマバッタではないかと言われます。トノサマバッタは単独で行動するものと、群れを成すものとあるそうです。
ここで使われているヘブル語は、「無数」という語から派生したものですが、それが地の面を覆い、地が見えなくなるほどになると言います。また全エジプトの家々の中にまで入って、「満ちる」と言います。一匹、二匹ではない。家の中にいても、バサバサ顔に当たったり、眠ることもできない…。エジプトには古くからこのような蝗害(こうがい)があったそうですが、今回は、エジプトの歴史上、経験したことのない規模のものとなろう…。そう一方的に言い放って、モーセたちは身を返して王宮を去ったのでした。何度も言葉を翻すパロの言葉など、もう聞くに値しないとばかりに。悔しいやら、恐ろしいやらで思考停止したか、何もモーセに言うことができず、彼らが去るのをただ見送るばかりのパロを、家臣たちがたまりかねていさめました。「いつまでこの者は私たちを陥れるのですか(口語訳「いつまで、この人はわれわれのわなとなるのでしょう。」が直訳)。この男たちを行かせ、彼らの神、【主】に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだおわかりにならないのですか。」(7節)エジプト人にとって、モーセは今や疫病神のように見えたでしょう。災いをもたらす「わな」呼ばわりです。
とっとと彼らを手放してください、と訴えます。蝗害については、彼らは時々経験していたので、今度そんなものに襲われたら、前回の雹の害をなんとか免れた小麦、スペルト小麦や、わずかばかりの緑や木の実も、きれいに食い尽くされることは、火を見るよりも明らか。パロのほっぺたを二三発、ビンタして「いい加減、目を覚ましてください!」と言ってやりたいところでしょう。このように直言してくれる家臣がいることは、ありがたいことです。パロは思い直して、モーセたちを呼び戻します。しかし、呼び戻しはしたものの、まだ全面的に主に従うことはしたくなかったようです。モーセに、お前たちを行かせよう、主に仕えてよい、だが、誰が行くのか、と問います。全員を行かせるつもりはないのです。しかし主の御心は全イスラエルをエジプトから連れ出し、約束の地を継がせることですから、モーセは、老若男女、羊も牛もみな、連れていくと応じます。するとパロは、「私がおまえたちとお前たちの幼子たちとを行かせるくらいなら、主がおまえたちとともにあるように、とでも言おう。見ろ。悪意はおまえたちの顔に表れている。」(10節)と、少し感情的とも見える言葉で応じました。
パロは、これはただ単に荒野に主の祭りをしに行くのではなく、全イスラエルがエジプトから出ていくつもりだと、意図を見抜いたのでしょう。それでパロは、「そうはいかない。さあ、壮年の男だけ行って、主に仕えよ。それがおまえたちの求めていることだ。」(11節)と妻や子供を人質に置いて行くよう、言いました。荒野で主に祭りをするというのが、お前たちの要求なら、それでよかろう、というのでしょうか。そしてモーセの返答を待たずに、彼らを追い出したのでした。主に対して全面降伏はしない。まだ牛と張り合うつもりのカエル。これを見た家臣たちは、思わず目をつぶったでしょうか…。主は予告したことを実行します。モーセが主の言われたとおりに、手をエジプトの地の上に差し伸ばすと、【主】は終日終夜その地の上に東風を吹かせました。トノサマバッタは、追い風に乗って飛び、向かい風のときは地に降りて休むそうです。それで、朝になるとその東風に乗ったトノサマバッタの大群が襲来しました。それはエジプト全土を襲い、全地の面をおおって、真昼なのに地が暗くなったほどでした。それらは、草木も、雹を免れた貴重な木の実も、遠慮なく食い尽くしました。エジプト全土から、緑がなくなりました。
だから言わんこっちゃない。家臣たちの刺すような視線を感じながら、パロは急いでモーセたちを呼び出しました。16-17節「私は、おまえたちの神、【主】とおまえたちに対して罪を犯した。どうか今、もう一度だけ、私の罪を赦してくれ。おまえたちの神、【主】に願って、主が私から、ただこの死を取り除くようにしてくれ。」同じことを繰り返すパロに、今回はモーセは何も言わずにそこを出て主に祈りました。すると、主はモーセの祈りに答える形で、今度は風の向きをグルッと180度ひっくり返し、きわめて強い西の風に変えました。その風がバッタの大群を吹き上げ、葦の海(エジプトの東側、シナイ半島北西部にある湖)に追いやったため、エジプトには、みごとに一匹も残りませんでした。主は、風をも御心のままに自由自在に東にも西にも変えてしまわれるお方です。こういう主のみわざを見たときに、なぜか、主が祈りに答えてくださったと認めずに、たまたま風の向きが変わっただけだと言う人がいます。祈りを過小評価してはいけません。ヤコブ書5:16-18、新約p451。5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。
義人の祈りは働くと、大きな力があります。5:17 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。5:18 そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。さて、パロの反応です。パロはこれまでに何度もこういうことを見てきていますから、これがモーセの祈りを聞かれた主のみわざであることは、わかっていたでしょう。しかし、わかっていても認めない。心の中の何かが邪魔をして、素直になれない。主の前に身を低くすることができない。蛇が鎌首をもたげるように、何かが頑なに、主の前に身を低くすることをさせないようにしている。それが罪の性質です。パロの心に焦点を合わせると、そのように言うことができます。しかしここでは、主の御心の方に焦点を合わせた言い方になっています。「【主】がパロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエル人を行かせなかった。」(20節)。前回触れたように、パロ自身が強情になったという面と、主がそのようになさったという、両面あります。この10章では最初に見た1,2節に呼応する形で、この表現が取られているのでしょうか。
このあたり、第3サイクルに入ってから、主の絶対主権ということが、前面に出されているように思われます。主の独壇場です。「主の御恵みは 限りなきかな」新聖歌33番それにしても、パロという人物の頑なさは、筋金入りのように見えます。しかし、もしかしたら、パロが特別なのではないのかもしれません。前々回、学んだように、私たちはみな、神の恵みがなければ、神に対しては死んだ者でした(エペソ2:1、新約p374)。死んでいる者は、呼びかけられても応答できないように、まず神が私たちに働きかけてくださって、神に対して生きる者とされて、初めて福音に応答できるのです。神の恵みがなければ、みなパロのように、どこまでいっても神に対して悔い改めることはできないのです。そう考えると、悔い改めて、神を信じる決心をするということは、神の一方的な恵みのみわざだと思わされます。それは、いかにありがたいことでしょうか。悔い改める心が少しでも起こったら、その心を決して無視せず、大切にするべきです。悔い改めには、大きく二種類あります。一つは、神との根本的な関係を正しくすることです。ある人はこれを、グルリと180度向きを変えることだと表現します。
神に背を向けていたのを、今度は神を正面に見て、神にふさわしい尊敬と従順をお捧げする人生を送るという意思を持つことです。神は、天地の造り主であり、命の源であり、すべてのよきものの与え手です。私たちを愛しておられる方です。しかし、罪ある身には、本能的にさばきを直感して、神を避けようとします。反抗したり、無視したり、否定したり。それはある意味、自然なことです。人は、恐ろしいと感じる相手を尊敬することや信頼することはできませんし、ましてや愛することなどできません。人に罪がある限り、神を裁き主として本能的に恐れを感じてしまいます。しかし神は、その恐れを取り去り、ご自身の愛と真実を表すために、御子を私たちの救い主として遣わされました。御子イエス・キリストは、私たちの罪を身代わりに背負って十字架にかかってくださいました。そしてそのことを信じる者にまったき罪の赦しを与え、その一人びとりを神の愛する子として受け入れてくださいました。神は、このような神であられるので、私たちも心から尊敬し、信頼し、さらに神の愛に応えて神を愛する者へと変えられるよう願うのです。そして二つ目の悔い改めは、個々の行いや心の思いなどの具体的な罪に関することです。
福音に立った悔い改めは、独特です。それは、単に後悔することや自分を責めることではありません。クリスチャンには、キリストによる限りない赦しがあることが、大前提としてあります。キリストによって、どんな罪をも赦されるのです。ここを忘れてはいけません。なので、自分のありのままを神に告白していいのですし、むしろするべきなのです。罪を肯定するのではありませんが、ただ自分の罪を示されたら(それも聖霊によるみわざです)、事実をちゃんと事実として認めていいのです。安心して認めていいのです。神はキリストのゆえに赦しておられるのですから!そして、父よ、私はご覧の通りの者です。私を造り変えてください、きよめてください、と神にお委ねする。神はその祈りを決して拒まれません。喜んで聞きあげてくださいます。むしろその場所こそ、最も主を親しく感じることができる、主に一番近い特等席です。主は、罪人を招くために来られたのですから!マルコ2:17、新約p67イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」