
神は、御子イエス・キリストを救い主と信じる者を特別に愛しておられる。
第四の災い、前回見た構造によれば、二番目のサイクルの最初になります。朝、ナイル川のほとりで、モーセがパロに主の言葉を告げるという型が見られます。20節「【主】はモーセに仰せられた。『あしたの朝早く、パロの前に出よ。見よ。彼は水のところに出て来る。(これはナイル川のことと思われます)彼にこう言え。【主】はこう仰せられます。「わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。」第三の災いのときは、警告なしでしたが、第二サイクルに入って仕切り直し、また主はパロにチャンスを与えます。「わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。」これに従えばよし、しかし、従わなければ…21節「もしもあなたがわたしの民を行かせないなら、さあ、わたしは、あぶの群れを、あなたとあなたの家臣とあなたの民の中に、またあなたの家の中に放つ。エジプトの家々も、彼らがいる土地も、あぶの群れで満ちる。」前回はブヨでしたが、今度はアブです。が、前回同様、ここも「あぶ」と訳された語は、元のヘブル語の意味が厳密には不明で、「いぬばえ」「はえ」などと訳すものもあります。今日は新改訳に従ってアブとして読みます。
アブは、ハエ目ハエ亜目に属し、大きさは7mmから30mmで、前回見たブヨより一回り大きく、見た目がハエに似たもの、ハチに似たものがいます。食性は3タイプあり、花につくもの、他の昆虫を捕食するもの、人や家畜について皮膚をかじって血を吸うものがいます。ここは、吸血性のアブでしょうか。このアブの群れが、家の中まで満ちるというのですから、口を開けて息を吸うと、口の中に入ってくるほどでしょうか。前回のブヨに続けて、たたみかけるように、害虫の大量発生でエジプトを打ちます。わたしの民イスラエルを放せと。ところで、今回はこれまでとは、違う点がありました。それは、イスラエルの民が住んでいるゴシェンの地には、アブの群れがいないようにされるということです。22-23節「わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。それは【主】であるわたしが、その地の真ん中にいることを、あなたが知るためである。わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く。あす、このしるしが起こる。」』」
ここまでの3つの災いでは、特にイスラエル人をエジプト人から区別するとは言われていませんでしたが、ここから後は区別されます。イスラエル人居住地は、主なる神から特別に扱われます。彼らの住む所だけ、災いから免れるように特別に守られます。こういう光景を目の当りにしたら、エジプト人たちは恐れを感じたでしょう。しかも、あらかじめ、そうすると告げておいて、その通りになっているのですから、これはもう、イスラエルの神が、事を行っていることが明らかです。反対に、イスラエル人にとっては、どうでしょう。自分をこの時のイスラエルの身に置いてみてください。うれしいのではないでしょうか。喜びのうちに、主をほめたたえるのではないでしょうか。これまでは、主は、裁きにおいて、ご自身をあらわしてきましたが、今度は裁きの中の救いにおいて、ご自身を示されるのです。こうして、前もってパロに告げましたが、ここでもパロは、モーセの言葉に耳を貸さなかったのでしょう。それで、主は予告通りに行われました。24節「【主】がそのようにされたので、おびただしいあぶの群れが、パロの家とその家臣の家とに入って来た。エジプトの全土にわたり、地はあぶの群れによって荒れ果てた。」
第二サイクルは、アロンの杖もモーセの杖も使われず、単に「主がそのようにされたので」と記され、主が直接、このことを行われたことをうかがわせます。もしかしたら、このアブは、前々回に見たカエルの死体の山から湧いて出たのかもしれません。さて、あらかじめ告げられていた通りの事態になって、パロはどうしたか。例によって、モーセに泣きついてきました。パロはモーセとアロンを呼び寄せて、この国内でお前たちの神にいけにえを捧げよと、と妥協案を示します(25節)。お前たちの神にいけにえを捧げたいというのなら、捧げも良い。ただし、この国内で、だ。エジプトの地から出ることは、まかりならん、と。大きな労働力だったイスラエル人を手放したくなかったのでしょう。しかし、イスラエルはパロの支配から出なければなりません。そして約束の地に行かなければなりません。それが神の御心です。こんな妥協案を飲むことはできません。モーセは、エジプト人の忌み嫌うもの(羊、創世記46:34)をいけにえとして捧げるので、それはできない、もしそんなことをしたら、エジプト人から石打ちに合うと、パロの理解しやすい理由を言いました(26節)。これも一つの知恵でしょう。
そして、主がお命じになった通り、荒野に三日の道のりの旅をして、主にいけにえを捧げなければなりません、とパロの妥協案を退けます。パロは、仕方なくモーセの言葉通りに、荒野へ行って主にいけにえを捧げることを許します。ただ、遠くへは行くなと釘を刺しつつ、私のために祈ってくれ、と頼みました(28節)。パロは、苦し紛れに、はじめから守る気のない、口から出まかせの約束をしたのでしょう。しかし、モーセはそれも見透かしていました。わかりました、私は主に祈ります、明日、アブがあなたたちから離れます、と応じた後、一言。「ただ、パロは、重ねて欺かないようにしてください。民が【主】にいけにえをささげに行けないようにしないでください。」(29節)と釘を刺しました。前みたいなことは、しないでくださいと。こうピシャリと言われたパロの顔が見てみたかった気もします。こうしてモーセはパロの所から出ていき、主に祈りました(30節)。するとここでも、主はモーセの願った通りにされたので、アブはエジプト人の所から離れて、昨日までワンサカ群れでいたのが、一匹もいなくなったと言います(31節)。みごとな主のみわざです。さて、パロはどうしたか。
エジプト全土がアブで覆われる中、イスラエル人の居住地だけが特別に守られているのを見、またモーセに祈ってもらうと、その通りにアブが見事に、一匹残らずいなくなったのを見たパロ。普通の神経なら、主の言葉に従うところでしょう。が、またもや、でした。32節「しかし、パロはこのときも強情になり、民を行かせなかった。」またまた、のど元過ぎれば。心をかたくなにするパロでした。強情なら強情で、アブがブンブン飛んでても、絶対にモーセには頼まない、というのではない。たまりかねて、助けてほしい時は、モーセに頼む。しかし、それが過ぎると、それがまた癪に触るのか、ますます意地になる。行くところまで行かないと、主の言葉に従わない、あわれなパロでした。「 十字架の血に きよめぬれば 」新聖歌45番23節「わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く。」主は「わたしの民」と「あなたの民」を、すなわち「主の民」と「パロの民」を対比させておられるようです。この両者を明確に区別されます。中間はありません。そのように、キリストのうちにある者と、そうでない者と、主の御目には二種類の人しかいません。
そして、主は、イスラエル人の住むゴシェンの地は、特別に扱ったように、ご自身の民にもそうされます。詩篇4:3(旧約p909)知れ。【主】は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、【主】は聞いてくださる。主は、ご自分の聖徒、クリスチャンたちを特別に扱っておられます。そのことは普段の生活の中で、一目でわかるようなことではないかもしれません。クリスチャンは、コロナにかからない、というわけではありません。病気にもなるし、試練にも会います。しかし、そういう中でも、主はいつも、私たちとともにおられます。目には見えませんが、キリストを信じる者のところに、主は来てくださって、片時も離れず、守り、支えていてくださいます。小さい子どもにも、御使いを張り付けてくださっています(マタイ18:10、新約p36)。そして何より、主の御霊が信じる者のうちに住んでいてくださって、私たちが気付かないところでも守り、導き、励まし、支えていてくださいます。そして私たちの内に住んでおられる御霊は、私たちの救いを、完成させてくださいます。私たちの日々の生活においても、主は信じる者を特別に扱っておられます。
主は、私たちをご自分の愛する子として、私たちの一挙手一投足にまで心を配っておられます。しかし、主の民とそうでない民との間の区別が、最も明確に表れるのは、裁きにおいてです。このときも、エジプトに対する裁きにおいて、その区別が明らかになりました。世の終わりの裁きのときには、キリストが私たちのために十字架にかかってくださったこと、またそのことを信じさせてくださったことを、心の底から感謝することでしょう。その時、すべての国々の民が御前に集められて、主は人々を右と左に分けられます。そして右側にいる人たちにはこう言います。マタイ25:34(新約p53)そうして、王は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。…また左側にいる人にはこう言います。マタイ25:41(新約p54)それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。…そして、最後にイエス様は言われました。マタイ25:46(新約p54)
こうして、この人たち(左側の人たち)は永遠の刑罰に入り、正しい人たち(右側の人たち)は永遠のいのちに入るのです。」文字通り、天と地ほどの違いが明らかになるのです。御国では、キリストのおかげで裁きを免れ、救いに入れて頂けたことを、永遠に、心から感謝して、ほめたたえることでしょう。この時のイスラエル人も、世の終わりの裁きの時の私たちも、罪がないのではありません。神が、裁きにおいて、えこひいきするのでもありません。裁きにおいて、不正があってはいけません。神は正しい方です。実は、この23節の「救い」と訳された言葉は、贖い、または身代金を意味する語で、他の所では「贖い」と訳されています(詩篇111:9、130:7、イザ50:2)。ここにはすでに、私たちの罪のための身代わりとなって十字架にかかってくださる御子イエス・キリストが暗示されていたのです。イスラエル人が、主の民とされ、裁きを免れたのは、御子イエス・キリストのゆえです。御子イエス・キリストが、彼らの罪を身代わりに引き受けてくださった。贖いとなってくださっていた。だから、彼らは救われたのです。私たちも同様です。
私たちが、裁きの時に滅びから救われるのは、御子イエス・キリストが、私たちのために贖いとなってくださったからです。御父が、御子を私たちの贖いとして、与えてくださったからです。御子が、ご自身の尊いいのちを与える対象に、私を、この自分を、選んでくださっていた、ということが、どれほどありがたいことか、感謝してもしきれないことか。それによって、文字通り、天と地とに分けられるのですから。最後に、主の民とそうでない民の区別が、誰の目にも明白になるのは、世の終わりの時ですが、主の愛は、その時になって注がれるのでなく、今、すでに注がれています。私たちの目には、区別がよくわからなくても、主の御目にはすでにはっきりと区別されて、ご自身の宝の民として、大切にされているということです。神は、信じている人も、信じていない人も、すべての人をご存じであられ、ご支配なさっておられ、いつくしんでおられますが、クリスチャンのことを特別に愛しておられます。御子が十字架にかかられたのは、他の人々のためではなく、信じる人々のためですから。
ですから、神は最愛の者として私たちを守り、導かれますし、また、私たちの身に、身の回りに起こることは、すべて、私たちを特別に愛しておられる神の許しの中で起こっていることです。目の前の困難を乗り越えさせるのは、神の愛の確信です。私たちは神の愛を今日、改めて確信し直しましょう。主は、愛する者のために助けを備えておられることを信じましょう。主に愛されている者として、正しい道を歩めるよう、心を定めて新しい一週間へと歩み出しましょう。詩篇5:12、旧約p910【主】よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。