礼拝説教要旨 2022年1月30日
これは神の指です
(出エジプト記 8:16~19)
今日の要点

闇の勢力は、欺きをもって真理を覆い隠すが、私たちは福音の真理を喜ぼう。

あらすじ

エジプトにくだされる災い、主なる神の裁き。その第三弾です。ところで、エジプトに対して最終的に十の災いがくだされますが、それは3つを1サイクルとしてその3セット、その後で十番目、最後の災いでパロがイスラエルを追い出すことになります。3×3+1=10という構造です。また、各サイクルの最初(第一、第四、第七の災い)は、パロが朝、川に来たところでモーセが告げます。各サイクルの2つめ(第二、第五、第八の災い)は、時間や場所は明示されず、ただパロのもとに行って言え、と命じられます。各サイクルの3つめ(第三、第六、第九の災い)は、警告なしに災いがくだされます。また第一のサイクルでは、アロンの杖が用いられ、第二のサイクルでは杖は使われず、第三のサイクルではモーセの杖あるいは手が用いられます。次々とくだされる裁きの中にも、整然とした構造がありました。さて、第一サイクルの三番めの裁き。イスラエルの民を行かせると約束しておきながら、喉元過ぎればで、平気で約束を破ったパロ。そっちがそういうつもりなら、と今度は、警告なしに災いを下します。16節「【主】はモーセに仰せられた。『アロンに言え。あなたの杖を差し伸ばして、地のちりを打て。

そうすれば、それはエジプトの全土で、ぶよとなろう。』」「ぶよ」と訳された元のヘブル語は、厳密には何を指すのか、はっきりしません。学者たちは、ブヨまたは蚊としているようです。エジプトのある地域では、こうした害虫がいつの時代にも悩みの種で、貴族たちは、棒の先にダチョウの羽をつけたもので、召使いにうちわのようにあおがせていたと言います。今日は、新改訳に従ってブヨとして読みます。ブヨは体長3-6mmほど、小さなハエのような見た目をしていて(ハエ目カ亜目ブユ科)、体色は全体に黒っぽく、腹部は黒と黄色の縞模様。針を持たず、皮膚をかみちぎって吸血、かまれると赤い出血点や流血、水膨れができる。吸血のときに麻酔のような毒素を注入するので、直後はそれほどかゆみを感じなくても、翌日以降に症状が出ることがあり、患部が赤く腫れ上がって激しい痛みや発熱などの症状が1~2週間続くことも。水辺の草むらなどに生息し、一年中いますが、特に春から夏にかけて活発に活動するとのこと。キャンプなどの時は、ご用心。このやっかいなブヨが、アロンが自分の杖をもって地のちりを打つと、エジプト全土を覆うようになるというのです。

ちなみに、前回見たカエルの死骸の山が腐って、そこからハエやブヨが大量発生したという見方がありますが、私は文字通りに取りたいと思います。モーセとアロンは、ここでも主から命じられた通りに行いました。今度はパロには告げず、即実行です。17節「そこで彼らはそのように行った。アロンは手を差し伸ばして、杖で地のちりを打った。すると、ぶよは人や獣についた。地のちりはみな、エジプト全土で、ぶよとなった。」彼らが主に命じた通りに行うと、主が語った通りになる。出エジプトという歴史的なみわざは、主が語り、モーセたちが従うという、この単純な信仰のわざの繰り返しで実現します。主への従順の価値、また力というものを正しく評価しておきましょう。ところで、エジプト人はきれい好きで、特に祭司は、小さな虫などが毛の間に入り込まないように、三日おきに全身の毛を剃ったと言います。そこにブヨがエジプト全土を覆って、人や獣についたのです。ほんの数ミリの小さなくせして、やっかいなこと。払っても払っても、つきまとい、皮膚をかじって吸血する。家畜も嫌がって暴れたでしょうか。民はまたも、困り果てます。

今回は、パロには通告していませんでしたが、これがモーセたちの手によることと、わかったのでしょう。例の呪法師たちは、ここでもモーセと張り合いました。種も仕掛けもあることなら、最初からできないとわかるはずですが、ここでモーセと同じことをやろうとしたということは、やはり悪霊か何かの力によっていたのでしょうか。怪しげな呪文を唱えて、必死で祈ったり、叫んだり、自分の体を打ちたたいたりしては、杖で地面をたたいたのでしょうか。ブヨが大量発生して困っているのに、必死でブヨを増やそうとする愚かな賢者たち…。しかし、呪法師たちは、どう頑張っても、モーセたちと同じことができませんでした。その一方で、アロンが杖で地のちりを打つたびに、ブヨはワーッと発生して、ますます増え続けます。蛇の道は蛇と言うのでしょうか、彼らは、これはとうてい自分たちの呪術の及ぶところではないと知らされ、これは大いなる神の御手によるものですと、パロに進言しました。これは我々には太刀打ちできません、早めに彼らの言う通りにした方がよいかと…と暗にパロに勧めているのかもしれません。がパロにはその気はありませんでした。

18-19節「呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。(が、)ぶよは(相変わらず増え続けて)人や獣についた。そこで、呪法師たちはパロに、『これは神の指です』と言った。しかしパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。【主】の言われたとおりである。」神の指とは、神がなさっていること、神のわざという意味でしょう。エジプトの神々が、あるいはエジプトの最高の知性が、イスラエルの神の前に白旗をあげました。しかし、パロはまだ負けを認めません。しもべたちに、ダチョウの羽のついた大きなうちわでセッセとあおがせて、なんのこれしき、これぐらいで音をあげるパロではないわ、と意地を張っていたのでしょうか。もしかしたら、前回のカエルの難のとき、たまらずモーセに祈ってくれと頼んだことが、あとになって癪に触って、今度はそんなことをするものか、と思ったのでしょうか。民が苦しんでいるにも関わらず、パロは、呪法師たちの言葉を聞き入れない。聞きたくないことには、耳をふさぐ。そんな子供じみた態度に、さらなる災いがくだされます。主が言われた通りです。「父と共に しらす君に 栄の冠を 捧げまつれ」新聖歌4番

呪法師たちは、ここまでは杖を蛇に変えたり、水を血に変えたり、カエルを水辺からはい上がらせたり、スケールは比べ物にならない、小手先の、みすぼらしいものではありましたが、どうにかそれらしいことをしてきました。が、彼らの欺きもここまで。ここから先は、モーセとアロンを通してなされる主のみわざを、まったくまねることができなくなります。彼らは、もうこれ以上進むことはできません。悪や欺きは、無制限に広がるのでなく、制限されているのです。あるところまでは進めても、そこで偽りは明らかにされます。使徒パウロが書いた手紙の一節が思い浮かびます。第二テモテ3:8-9、新約p416。3:8 また、こういう人々は、ちょうどヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。3:9 でも、彼らはもうこれ以上に進むことはできません。彼らの愚かさは、あのふたりの場合のように、すべての人にはっきりわかるからです。ユダヤの伝承によると、このヤンネとヤンブレが、エジプトの呪法師たちの名前です。パウロの時代の真理に逆らう者は、何か怪しげな奇跡を行ったというよりも、偽教師の類だったようです。

彼らは、恵みによって救われているのだから、好き勝手ことをして良いとか、罪深い生活をするほど、それを赦す神の栄光をあらわすことになるのだから、気にすることはない、などとうそぶいていたようです(第二テモテ3:1-7,ローマ3:5-8,6:1,15参照)。しかしもちろん、それは偽りです。神の恵みは、私たちを罪や汚れから離れさせ、私たちのうちに神のかたちを回復してくれるもの、イエス様の似姿へと造り変えてくれるものです。モーセの時代にも、パウロの時代にも、真理に逆らう者はいました。残念なことに、平気でうそをつく人、欺く人が、世の中にはいます。そういうのを見ると、腹立たしく思ったり、こんなことでは世の中は、どうなっていくのだろうと心配になります。しかし、欺きがいつまでも続くことは、ありません。必ず明らかになるときが定められています。悪に対して悪をもって報いず、私たちは神に信頼して、真理のうちに留まりましょう。神とキリストに対する偽りも、常に存在します。彼らは神に、キリストに逆らいます。中には、キリストを貶める低俗な小説まで出ています。腹立たしい限りです。しかし、これらはヤンネとヤンブレの末裔です。やがてその偽りは明らかにされます。

世の終わりが近づくと、怪しげな奇跡を売り物にして惑わす者も現れるようです。神はなぜ、偽教師や惑わす者などを、ある程度、活動することを許されるのでしょう(「赦す」でなく「許す」です)。第二テサロニケ2:9-10、新約p403にヒントがあります。2:9 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、2:10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。2:11 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。2:12 それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。偽りの力、しるし、不思議また悪の欺き。これらをある人たちは喜ぶというのです。あたかも、腐った臭いに引き寄せられて、ゴキブリがホイホイ滅びの箱に入っていくように、真理を喜ばず、悪を喜んでいる者たちは、これらに引き寄せられ、滅びに至るのです。キリストは、罪びとを救うために来られましたが、それは、自分の罪や悪を悲しみ、そこから離れたい、救われたいと願う罪びとを救うということです。

悪や偽りを心底、喜んでいる罪びとには、厳しい裁きが残されているだけです。悪を行っている者も、みな、御心にかなっている、主は彼らを喜ばれる、裁きの神などいない、というのは、偽りです(マラキ2:17、旧約p1565)。他方、真理を愛する者は、永遠の御国に迎えられます。真理とは、福音のことです。イエス・キリストの十字架と復活です。神は、私たちを愛し、罪ある私たちを滅びから救い、ご自身の子として永遠にご自身と共に住まわせるために、この上ない犠牲を払われました。この上ない痛みを負われました。私たちに罪の赦しを与え、罪から洗い清めるために、神は、最愛の御子を人として世に遣わし、御子の上に私たちの罪を背負わせて、私たちの身代わりに十字架上で、私たちの罪に対する刑罰を受けさせました。また御子も、御父とまったく同じ心で、自ら進んで、このことを行われました。御父と御子が、いっしょになって、そろって、私たちに真実なご愛を示してくださったのです。それゆえ、この真理を知った者は、この真理を愛するようになります。使徒ヨハネは、この御父と御子がそろってあらわしてくださったご愛、ご真実こそ、福音の核心だという思いがあったのでしょうか。

その手紙の中で、次のように言います。Ⅰヨハネ 2:22、新約p467偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。また、御父と御子がいっしょになってあらわしてくださったこの真理は、冷たいものではなく、私たちに神の真実なご愛に触れさせ、私たちの良心をきよめて、神との交わりにー遠い昔にアダムたちが失った神との純粋な交わりにー入れてくれるので、私たちの心を喜びで満たします。同じく使徒ヨハネの言葉。第一ヨハネ1:3-4、新約p4651:3 …私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。1:4私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。今はまだ、闇が世を覆っていますが、それはいつまでもは続きません。歴史のゴールは、すべての口が御子をあがめることです。ピリピ書2:9-11、新約p3842:9 それゆえ神は、この方(キリスト)を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。私たちも、屠られた子羊キリストを告白し、父なる神をほめたたえましょう。