
主は私たちのために素晴らしい結末を用意している
前回に続いて、ヨセフ物語のクライマックスです。二十数年前、獣に引き裂かれて死んだものとばっかり思っていた最愛の子ヨセフが、なんとエジプトで生きていた。その知らせに、天にも昇る気持ちでエジプトに向かうヤコブ。「私の愛する子、ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。」この二十数年間というもの、一日たりとも忘れることなく、来る日も来る日も重い心を引きずって生きてきたヤコブです。その悲しみが深ければ深いほど、喜びも大きかったでしょう。今度はうれしさのあまり、しばらく眠れない日が続いたとしても、不思議ではありませんでした。こうして今日の46章になります。ヤコブ、別名イスラエルは、喜び勇んでパロが送った車に乗ってエジプトに向かいます。ところが、脇目も振らず、前のめりになって旅路を急ぐかと思いきや、いざ、カナンの地を離れるという段になって、一抹の不安を覚えたようです。1節の「ベエル・シェバ」は、エジプトに向かう途中の場所で、カナンの最南端となる所です。ここまではカナン。ここから先は、カナンから出ることになる地点です。
ヤコブは、喜びいっぱいでここまで来たものの、このまま、この約束の地を出てしまっていいのだろうか、と不安がよぎったのでしょう。信仰的、良心的な心配です。確かに、以前見たように、神は、カナンの地をアブラハム、イサク、ヤコブに与えると約束していました。それをこのまま、カナンを出てしまったら、神の約束を自分から捨てることになるのではないか。それに、かつてヤコブの祖父アブラハムが、ききんの時にエジプトに下って大失敗をし、父イサクはやはりききんの時に、エジプトには下らないように、と主によって禁じられたこともありました(12:10,26:2)。ヤコブは、エジプトは行ってはいけない地と教えられていたのかもしれません。それでヤコブは、はやる気持ちをグッと抑え、ここで立ち止まって、主なる神を礼拝し、神と向き合う時を持ったのでしょう。そんなヤコブに、主なる神のほうもまた、打てば響くで、夜、幻の中で、「ヤコブよ、ヤコブよ」と親しく語りかけました。そして、エジプトに下ることを、恐れることはないとお言葉をくださいました。神のご計画は、エジプトの地で、ヤコブの子孫を大いなる国民にすることだったのです。ヤコブがエジプトに下ることは、神の御心だったのです。
アブラハム、イサクの時はダメだったけれども、ヤコブの時は御心だったのです。救いの真理は永遠に変わりませんが、事柄によっては、時代や人によって変わることもあるのです。思い込みで固定化してしまわずに、生きておられる神を礼拝し、神に聞く信仰をもっていたいものです。ヤコブのエジプト行きも、御心ですから、主ご自身が、ヤコブとともに行ってくださると保証されました。天地の造り主が、ともにおられる。これにまさる安心安全はありません。そして主は将来、再びヤコブを導き上ると言われました。ヤコブはエジプトで最期を迎えることになるので、これはヤコブの子孫をカナンに帰らせるという意味か、あるいはヤコブが復活したときに、再びカナンの地に立たせるということか。そして最後に主は、最愛のヨセフがヤコブの最期を看取ってくれる、と告げられました。もう二度と離れることはない、最後までいっしょにいるということです。神は、至れり尽くせりで、ヤコブを力づけました。私たちも何か、大切な決断をするときは、静まって主を礼拝して、御心を仰ぐというライフスタイルを身に着けたいものです。箴言3:5-6(旧約p1059)3:5 心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
3:6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。さて、8節以下は、この時ヤコブと一緒に下った人々のリストです。8節「イスラエルの子」とは、後のイスラエル民族となる人々という意味です。神の民イスラエルの原形となる人々のリスト。どれほどピカピカに輝くご経歴のお歴々か、と思いきや、これまで創世記を読んできた方は、もはや、そんな勘違いをしないでしょう。ルベン、シメオン、レビ、さらにユダも、この時は、立派に悔い改めの実を結び、造り変えられていましたが、過去には汚点がありました。つくづく、神の民とされるということは、人間の側の徳とか立派さのゆえではなく、神の憐みのゆえだったと、ここでも心に銘記しておきたいと思います。神の民とは、神の憐みの器なのだと。この70人あまりの集団を、神は祝福し、おびただしく増やして、430年後の出エジプトのときには、歩ける男子だけで60万人となっていました。70人が60万人に!あなたを大いなる国民としよう、とのお約束通りです。さて、こうして一行は無事、エジプトに近づきました。
何かと頼りになるユダを一足先にヨセフの所に遣わして、ゴシェンへの道を示してもらい、ユダの先導でいよいよゴシェン入りです。ヨセフの方もゴシェンへ出向いて、その時を待ちます。そしてついについに、夢にまで見た父と子の再会の時がきました。ヤコブもヨセフもお互いに、はるか遠くに相手の姿を見つけるや、胸の高鳴りも最高潮に達し、景色も潤んだでしょう。そして29-30節。読む方も思わず、目頭が熱くなるところです。「ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えるためにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けた。イスラエルはヨセフに言った。『もう今、私は死んでもよい。この目であなたが生きているのを見たからには。』」ヨセフは、「父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続け」ました。もはや、言葉は無用。いきなり抱きついて、嗚咽しました。二十年来の思いが心の底から湧き溢れて、ひたすら泣き続けました。ヤコブの方も、言わずもがな、感極まりました。「もう今、私は死んでもよい。この目であなたが生きているのを見たからには。」
地獄から天国といいますか、ある意味では、ヨセフが生まれたときの喜びよりも、今回のほうが大きかったでしょう。ゼロからのプラスでなく、マイナスから、大きな大きなマイナスからのプラスですから。ヤコブの人生は、最後の最後に思ってもみなかった、うれしい、うれしい大逆点を恵まれたのでした。神のなさることは、私たちの思いをはるかに超えています。「天よ喜べ 地よ歌え イエス君今日ぞ よみがえれる」(新聖歌126番)46章は1節でヤコブのことを「イスラエル」と呼んで始まっています。神と戦い、人と戦って勝ったという故事にちなんで与えられた名前イスラエル。あたかも神が敵対しているかのように、厳しい試練を与えられるが、実は神は右手で試練を与えつつ、左手でヤコブを支えておられて、最後は見事に勝利にあずからせてくださった。この46章では、そんなヤコブに対して、輝かしい称号として「イスラエル」と呼んでいるようにも見えます。長かった試練のときを耐えて、ようやく報われるときが来たことを喜ぶかのように。父なる神の愛は、訓練する愛、時に敵対するかのように感じられる。苦しい時もあえて苦しみを取り去らず、そこを通らせる。
けれども、決して途中でお見捨てになることなく、支えておられて、必ず最後には栄光に導いてくださる愛です。ヘブル12:11(新約p441)すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。「懲らしめ」というと何か悪いことをしたことに対するものですが、そうではない試練もあります。そんな試練の中でも、もちろん懲らしめの中でも、私たちを支えて、祝福にあずからせる神がおられる。そんな世界観をもって、私たちクリスチャンは生きています。そのことをもう一度、確かめておきたいと思います。私たちが信じているのは、絶対に悪いままでは終わらせない祝福の神。変な言い方かもしれませんが、私たちを愛することに執念を燃やしている神です。当の私たちよりも、私たちの祝福のことを真剣に考えて、そのために犠牲を払って、私たちをまったき祝福にあずからせずにはおかない神です。私たちの方は、ときに投げやりになってしまうかもしれませんが、神の方は、私たちを大事な大事な息子、娘として、慈しんで、仕上げてくださるのです。
自分の手に負えない状況になったときに、このお方にお委ねできるとは、何と幸いなことでしょうか。聖書は、ここに至るまでのヤコブの22年間について何も記していません。特筆すべきことは、なかったのでしょう。ヨセフが生きているとは知らず、ただただ悲しみに耐えるだけの22年間だったのでしょうか。しかしそんな中でも彼は、信仰は捨てませんでした。「こんな神なんか!」とたたきつけませんでした。信仰に留まりました。それで十分でした。よく耐えてくれた。そして、最後にヤコブは、愛するベニヤミンを手放して、神に委ねました。委ねさせられました。その結果、神が用意しておられた最高の結末にあずかることができたのです。もちろん、試練の中、恵みをもって彼を支えていたのは、主です。預言者エレミヤの哀歌の一節が浮かびます。哀歌3:31-33(旧約p1354)3:31主は、いつまでも見放してはおられない。3:32たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。3:33主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。信仰者はしばしば試練を与えられます。
出エジプトのとき、神はイスラエルの民を左右は山が迫って逃げられず、前方は海という袋小路に導かれました。そこへ後ろからエジプトの大軍が迫ってきました。万事休す。例によって民はモーセに「何ということをしてくれたんだ!」と怒りをぶつけました。無理もありません。それに対してモーセは言いました。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。」(出エジプト14:13、旧約p120)と。結果はご存じの通り。神は目の前の海を両側に分けて、壁のようにそそり立たせて、海の中に乾いた道を造り、そこをイスラエルの民に通らせて、向こう岸に渡らせました。そしてエジプト軍が追いかけてきたところで、それまでそそり立っていた水の壁は崩れ、イスラエルを滅ぼそうとしたエジプト軍は自分たちが全滅という結末でした。チャック・スミスという人は「私たちは物事の渦中で、早とちりして神を非難し、話の最後まで見ません。その時に起こっている事だけを見ています。」とコメントしています。良い結末を用意している神を信頼しましょう。
試練の中を突破する力は、神の愛を信じる所から来ます。そしてその信頼は決して裏切られることがありません。神は、愛する子たちのために、よい結末をご用意くださっています。ヤコブの場合は地上の生涯の終わり近くにドンデンガエシがありましたが、もし仮に、地上ではなかったとしても、来るべき世で迎える本当の最後の結末は大・大・大ハッピーエンドです。神が、十字架にかかられたイエス・キリストを三日目に栄光のうちに復活させた事実が、そのあかしです。キリストの復活は、世の終わりに神がなさることの先取り、デモンストレーションです。神に信頼を置く者を、神は決して見放さず、ご自身の名誉にかけて報いる歴史の結末を用意しておられます。かつては、そんな絵に描いたようなハッピーエンドなんて、おとぎ話じゃあるまいし、と斜に構えて見ていた者も、キリストを復活させた神がおられることを知って、大まじめに信じられるようになりました。この世にあっても、神は多くの良いものを備えておられるし、来たるべき御国では、私たちの思いをはるかに超えた喜びを用意している。そんな二段構えの世界観をもって、地上の旅路を送ることのできる幸いです。
疑うことなく、臆せず、私たちのために、ご自身のきよい命を注ぎ出してくださったキリストの愛を信じて歩みましょう。ピリピ3:20-21(新約p387)3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。