
「信じる」ことの、大切さ、価値、力を見直す。
「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」叫んで、身を明かしたヨセフ。最初、あっけにとられ、やがて青くなって身をこわばらせる兄たちに、「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」とやさしい言葉をかけたヨセフの姿を前回見ました。かつて、自分をエジプト行きの商人に売った兄たちでしたが、真実に悔い改めたのを見るや、彼らを心から赦し、慰めの言葉さえかけたのでした。世の中には、昔は柔和で優しかったのに、偉くなった途端に傲慢になり、傍若無人で、横暴な人に変わってしまったという、残念な人もいるのかもしれませんが、ヨセフは違いました。今や、エジプトの大宰相、国政をパロから一任されるほどの権威を持ちながら、その人柄は、柔和で、慈しみ深く、一度は自分を殺そうとした兄たちさえも赦して、慰めるという、御霊の人でした。「神には忠実、人には愛」という彼の人生の縦軸横軸は、エジプト宰相に上り詰めた後でも、狂うことがありませんでした。そんな人柄のヨセフですから、臣民からも信頼され、慕われ、圧倒的な支持を得ていたのでしょう。
ヨセフの兄弟たち現る!の知らせに、パロをはじめ家臣たち一同、もろてを上げて喜びました。そしてパロ自ら、最高待遇をもってヨセフの家族をエジプトに招待します。17節の家畜に積む荷は、食糧のこと。ヤコブ一族だけで66名ほど(46:26)、それに多くのしもべたち、それを最低でも1か月分ほどでしょうか。となると、ろば何十頭分にもなったでしょう。そしてエジプトの最良の地を与え、地の最も良い物を食べさせると言います。日本で言うと、コシヒカリで養いますよ、松坂牛もありますよ…というところでしょうか。最高の生活を保証しました。さらに、遠い旅路を来るのに、女性と子どもたち、それに老いた父ヤコブのためには、車を出すと。ろばや牛に引かせる車でしょうが、当時としては最新の文明の利器で、そんじょそこらの金持ち程度では使うことができないものだったでしょう。それを十何台かでしょうか、ズラリとそろえて、迎えによこす。国賓並みの待遇です。そして持ってこれない家財については未練を残してはならない、エジプトの最良の物が、あなた方を待っているのだから、と決断を促します。ヨセフは、パロの言葉通り、荷物や車を整えました。
それとは別に、ヨセフ自身からも、兄たちに晴れ着を与え、ベニヤミンには銀300枚と晴れ着5枚を与えました。兄たちに対しては、心から赦していることを表すためでしょうか。さらに父ヤコブにはエジプトの最良の物を満載した十頭のろば、それに穀物とパンと道中の食糧を積んだ十頭の雌ろばを贈りました。お土産の洪水です。ヤコブには食べきれない量でしょうが、孫にあげたり、何より父ヤコブに対する、ヨセフのあふれるばかりの愛情の表れなのでしょう。こうしてヨセフは、兄弟たちを送り出します。そのとき、兄たちに一言、言いました。「お兄さんたち、くれぐれも、途中で、言い争わないでくださいよ。」(24節)きっと兄たちは、言い争いになると踏んでのことでした。「俺は、最初から気が進まなかったんだ。」「言い出しっぺはシメオンだったな。お前が無理やり俺たちを巻き込んで…」と始まりかねない。ヨセフは、兄弟仲良く暮らしてくれることを願って、釘をさしたのでした。さて、一行はカナンに戻りました。首を長くして待っていたヤコブでしたが、戻ってきた彼らを見て、びっくりしたでしょう。何十頭ものろばに満載した食糧、それにズラリと並んだ車。
これは一体、どうしたことか…?戸惑うヤコブに、兄たちは言いました。「ヨセフはまだ、生きています。しかもエジプト全土を支配しているのは彼です。」(26節)こう聞いても、にわかには信じられませんでした。無理もありません。22年間、もう死んだものと思って、深い悲しみの中にいたのですから。ヨセフが生きている?エジプト全土を支配している?事態を飲み込めずに、ぼーっとしているヤコブに、彼らはヨセフが話したことを残らず話して聞かせ、そしてヨセフがヤコブを乗せるためにと送ってくれた車を見せました。息子たちの言葉だけでは、信じられなかったヤコブも、当時、よほどの人でないと持てなかった、エジプトの最高級の車を見て、ようやくこれが現実のことと飲み込めました。そして現実のことと分かるや、ヤコブの全身に活気がみなぎりました。それまで半分死んだような生気を失っていたヤコブの顔が、パッと輝き、やがて、喜びの涙が目からあふれました。車を見たからではありません。ヨセフが、あのヨセフが、生きている!二十数年間、死んだと思っていたあのヨセフが、生きている!その一事が、ヤコブの心を喜びで張り裂けんばかりに満たしました。28節「イスラエルは言った。
『それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。』」最高級の車も、ヨセフのエジプトでの立場も、何も要らない。ただヨセフが、あのヨセフが生きていた!それだけで十分…。ああ、神よ、感謝します…。一時は、ヨセフが死んだと思って、後を追いたいとさえ思ったヤコブです。それが、生きているというのですから、ヤコブの喜びは言葉に表すことができないほどだったでしょう。ヤコブにすれば、ヨセフは死んでいたのが、復活したようなものです。この日を境に、ヤコブの日々は180度変わりました。ヨセフに会う日が一日一日と近づくにつれて、ますます期待を膨らませ、喜びが大きくなり、その日を迎えるのでした。「御言葉なる 光のうち 主と共に歩まば」(新聖歌316番)ここで印象的なのは、ヤコブの激変ぶりです。ヨセフが生きていて、エジプトで支配者となっていると聞いても、最初は信じられず、ボーっとしていた。それが、実際にヨセフがよこした車を見て、ようやくそれが現実のことと分かった途端、元気づきました。このとき、ヤコブは、まだ実際に会ったわけではありません。目に見える状況が変わったわけではありません。
しかしヨセフの姿をまだ見ていなくても、実際に生きていると知っただけで、そしてこれから会いに行けると知っただけで、喜びがあふれたのです。このことは、「信仰」の大切さ、また価値、また力ということを教えてくれます。私たちがどんなに素晴らしい神の約束や御言葉を聞いても、それが信じられなければ、「ぼんやり」しているだけでしょう。どんなすばらしい神の約束も、それを事実として、現実のこととして、信じられなければ、それは私たちを変えることはありません。御言葉に力がないのではなく、信仰によって、それを現実のこととして結び付けられていないからです。昔、イスラエルの民が、虐待されていたエジプトの地から、すばらしい約束の地へ導かれると神が約束されましたが、途中、荒野で苦しみの中を通る中で、「こんなこと、やってられるか!」と投げ出した人たちは、約束の地には入れませんでした。ただヨシュアとカレブという、神の約束を最後まで信じ通した二人だけが、約束の地に入ることができました。次の御言葉はそのことを言っています。ヘブル書 4:2(新約p427)福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。
ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。神の約束や御言葉を、信仰によって、現実のこととして結び付けましょう。何でもかんでも信じるのは愚かなことですが、神の言葉、神の約束を信じないことも、それに劣らず愚かなことです。神は真実な方であり、決して裏切ることなく、最後まで信じ通す者を決して失望させることがないのですから。信仰の価値というものを、改めて見直しましょう。このとき、ヤコブが最後まで信じなかったら、嘆きと悲しみのままでした。信じた途端に元気づいたのです。御言葉は、信仰を働かせて、現実のこととして認識しましょう。ヘブル書11:1 (新約p438)信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。聞いたことが力になるには、信仰が必要です。ただ聞くだけではなく、聞いて、信じることが必要なのです。信仰によって、聞いた御言葉が、私たちの心の中で確信となることが必要なのです。その信仰は、聖霊によって与えられます。真理の御霊を求め、霊の目が開かれるように願いましょう。以下は、パウロの祈りです。
エペソ1:17-19(新約p374)1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。ここでパウロは、神を知るための御霊を求めています。神を知るためには、人間の側からいくら頑張っても、哲学に明け暮れ、むずかしい理屈をこねくり回し、知識を山ほど積み上げても、知ることはできません。逆に、御霊が私たちに臨んで、心の目を開いてくださるなら、5歳の子どもでも、神をよく知ることができます。神を知る方法について、神ご自身が、そのように定めておられるのです。誰も高ぶることのないように。
そして神の召しによって与えられる望みが、どのようなものか、聖徒(クリスチャン)が世の終わりに受け継ぐ御国がどのように栄光に富んだものか、知ることができるようにと祈ります。おそらくここが、聞いてもピンとこない、ボンヤリしてしまうところだと思います。しかし信仰によってこれが現実のこととして確信し、心にしっかり治まるならば、これらの望みは、私たちを元気づけにはおかないはずです。世の終わりのことだけではありません。神の全能の力の働きによって、信じる者に働く神の偉大な力がどれほどのものであるか、を知ることができるようにとも、パウロは祈っています。神の全能の御力は「信じる者」に働くのです。福島原発前の教会の牧師として、東日本大震災を経験した佐藤彰牧師が、こんなことを言っていました。「問題があることが、問題なのではない。問題だ、問題だと言って、問題を乗り越えさせてくださる神を信じない不信仰が問題なのだ、と。」無責任に、能天気に言った言葉ではなく、それこそ生きた心地もしない日々、難題につぐ難題を乗り越えてきた人の言葉だけに、重みがあります。この人は、そういう風にして、あれだけの苦難の中を通り抜けて来られたんだなあ、と思わされます。
わけのわからない、突然降ってわいたような嵐のような試練に投げ込まれて、無我夢中で、とにかく神に信頼して、大丈夫だ、今は先が見えなくても神が道を開いてくださると、信じるしかない。根拠も何もなくても、信じるしかない。目に見える根拠、人間の計算による根拠など、全て吹き飛んでしまうような状況の中で、ただ聖書は、神が私たちを愛しておられて、決して見放さない、見捨てない、と約束している。それを、どんな状況の中でも、ただ信じるしかない。そうしないと、前に進めない。後ろ向きに考え出したら、ものすごい勢いで押し返されて、つぶれてしまう。四の五の言ってないで、ああだ、こうだと考えては行き詰って、落ち込んでいる暇はない。とにかく進む以外にない、という状況にあって、こういう信仰の杖一本を頼りに、生き抜いてこられたんだろうなあ、と思うのです。そして、神は事実、その信仰を裏切らずに、立派に乗り切らせてくださったわけです。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。」このイエス様の御言葉は、いつの時代にも真実です。肉体が癒されるという形で答えられることもありますが、たとえそうでなくても、別な形で救われます。神は裏切りません。
「信じる者」に働く神の力を、馬鹿にしてはいけません。信じない者にならないで、信じる者になりましょう。神の愛を信じましょう。キリストの愛が、自分に向けられていることを信じましょう。現実のこととして、信じましょう。聖霊が、お一人びとりに力強く臨んでくださいますように。