
神様から与えられている恵みに応答して、礼拝する
前回は、ヤコブが旅の途中で与えられた夢の話でした。天から階段(はしご)がさしのべられて、その天と地を繋ぐ階段の上を御使いが天と地の間を上り下りしていたと云う、よく西洋の絵画の題材にもなっているあの、有名なヤコブの天の階段・はしごのくだりでした。孤独と不安とそして自責の念を抱えて、本当に神様は、自分のような者を守ってくださるのだろうか、父をだまして兄の祝福を横取りしたこの自分を…。こんなことになったのも自業自得、それなのに守ってくださいなんて、虫が良すぎるんじゃないか…と己の罪の呵責に神様の守りすら信じられなくなって、おびえるヤコブ。そんな彼に、あわれみ深い父なる神様は、彼が潰れてしまわないように夢の中で御使いを見せて、彼を励まし、力づけてくださったのでした。あたかも「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される」(詩篇34:7)の御言葉を絵にしてヤコブにみせて、励まされたかのようです。さらに神様は、治安も悪く、食物、飲み水すら確保されるとは限らない当時の一人旅―800kmにも及ぶ長旅―にこぎ出したヤコブに、直接「わたしがいつもあなたとともにいて、わたしがあなたの旅を最後まで守り導く。
わたしは決してあなたを捨てない。」と約束されたのでした。わたしは、罪人を招くために来たのです、と仰ったイエス様は、こんな昔にも、ヤコブを招くために来ておられたのでした。目が覚めたヤコブは、いまだ夢覚めやらぬといった面持ちで、半ば呆然として口にしたのでしょうか。「まことに主がこのところにおられるのに、私はそれを知らなかった。」と。信仰の原体験と言いますか、この神聖な経験は、この後のヤコブの信仰形成に大きな影響をもたらしたでしょう。前後左右どこを見ても誰もいない。孤独な一人旅だと思ってたいら、主なる神様がすぐ近くにおられた。こんな自分にも…。そしてふと、我に返ると、恐れおののいて独り言を言ったのでした。「この場所は、なんと恐れ多いことだろう。こここそ、神の家に他ならない。ここは天の門だ」聖なる神様のご臨在は、恐れを感じさせるものです。そして今見た光景の残像が、まぶたに残っていたのでしょうか。神様が現れてくださったこの場所は、神の家。そのはしごは、その先をズーッと目で追っていくとてっぺんは天に通じていた。自分ももし仮にそこを通ることを許されたら、生きながらにして天を垣間見、入ることができる天の門…。
こうして、彼は神様から与えられた光景、それに主ご自身が隣で語ってくださったことに大いに感動したのでしょう。「翌朝早く」(18節)何とか、神様から受けた恵みに応えたい、応答したいと思って、行動を起こしました。これが礼拝です。受けた恵みに何かお応えしたい。何かをさせて頂きたいという気持ち。この心が礼拝の原点、また礼拝の原動力なんですね。オツトメではないのです。これをしたから偉いとか、功績みたいに神様が報いて御利益をくださるとか、そういうことではない。神様の素晴らしさに感動して、ほめたたえるのもそうですが、このときのヤコブのように、まず神様が自分に示してくださった恵み、あわれみに感動して、何かをさせて頂きたいと思う。この心が、神様の御目に尊いのです。ヤコブは、枕にしていた石を取って柱として立て、その上に油を注ぎました。石に油を注ぐと言うのは、聖めるということで、これは神様のために、他の石と区別して、聖め別つ、すなわち聖別するという事を表わしています。この石を、神様が現れてくださったことの記念として、聖別してここに立てますということです。油は、当時は非常に高価なものでしたが、それを惜しげもなく石に注ぎました。
ヤコブがいかに感動したかが伺われます。そうして彼はこのところをベテル(ヘブル語で神の家と言う意味)と呼んで、ある誓いを立てました。これもヤコブなりの礼拝の表れです。(20-22節)「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、無事に父の家に帰らせてくださり、こうして【主】が私の神となられるなら、石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ず捧げます。」神様が無事、道中を守ってくださって、食べるもの、着るものを与えてくださったら、その与えられたものの十分の一を必ず、お捧げします、と言うのです。慎ましいと言いますか。豪邸と車と一生安心して暮らせる財産をくれたら、ではありません。食べるものと着るものを与えてくださったら、なのです。Ⅰテモテ6:7-8(新約p411)6:7 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。6:8 衣食があれば、それで満足すべきです。私達が生きていくためには、特に現代社会においては、食べ物と着る物以外にも必要ですが、ただ、本当に必要なものは、それほど多くはないのかもしれません。
今日の箇所は、あわれみ深い神様に出会った神聖な感動に突き動かされて、ヤコブが神様に礼拝を捧げたところでした。その感動は「まことに主がこのところにおられるのに、私はそれを知らなかった。」との言葉にあらわれています。そして石を立て、油を注いで聖別し、そして神様がくださるものの十分の一をお捧げします、と誓いました。彼はこういう形で、自分に現れてくれた神様に感謝を表し、礼拝を捧げたのです。誰から言われたわけでもなく、そういう決まりがあったわけでもなく、自発的にこうしました。自分のために現れてくださった神様のために、何かしたい、せずにはいられない、という気持ちがあったのです。しつこいですが、それが礼拝の原点、また原動力です。こういう心の動きは、神のかたちに造られた人間だけのものではないでしょうか。聖書はこのような感謝する心、受けた恩に応える心を大切にするよう勧めています。親を敬うようにとは、モーセの十戒の第五戒です。また第一テモテ5:4,8(新約p410)でも勧められています。
よく動物の番組で、猿でもライオンでも、親が子どもの世話をするのは当たり前に見ますが、子どもが大きくなって、自分を育ててくれた年老いた親の世話をするのは、見たことも聞いたこともありません。受けた恩に報いるというのは、人間ならでは尊い行為なのではないでしょうか。親孝行の心と神礼拝の心は、通じるものがあるのです。第五戒の意義は深いです。それからもう一つ、心に留めておきたいことは、ヤコブの神礼拝は、犠牲を伴ったものだったということです。彼が捧げると言った十分の一という割合は、聖書によく出てきます。什一献金という言葉を聞いたことがある方も、多いかもしれません。収入の十分の一を捧げるということにしておられる方、また教会も少なくないと思います。この教会では余り言いませんが。この十分の一というのは、けっこうキツイのではないでしょうか。これをしようと思ったら、趣味や娯楽の部分で我慢しなければいけないところも出て来るかもしれません。何かをあきらめないといけないかもしれません。切り詰めないといけない所も出て来るかもしれません。ですから、痛みを伴うんですね。ですから、それはある意味で、十字架を負うことです。献金は、献身です。
そして献身こそ、私達が捧げる霊的な礼拝です(ローマ12:1)。今日の招詞で読みましたように。神様のために、神さまの御業のために、犠牲を払って捧げることは、紛れもない神礼拝の行為です。昔、イスラエルで礼拝のときに牛や羊などの手塩にかけた家畜をほふったように。逆に、痛くもかゆくもないものを神様に捧げて、それは果たして神礼拝と言えるのでしょうか。大富豪が痛くもかゆくもない1億円を、神様への感謝の心なく献金しても、神様は見向きもしないでしょう。もし「俺様は1億も献金してやった。少しくらいいい目を見させてくれても、バチは当たらんだろう。」などと思ったなら、祝福どころか呪いを招くでしょう。反対に、貧しい中から、それでも神様のために、いくらかでも捧げたいという気持ちから千円、百円を捧げるなら、神様はその心を喜ばれるでしょう。貧しい人にとっては、本当は千円、百円でも身を切るような痛みを感じるかもしれません。自ら貧しくなられたイエス様は、そのことを身をもって知っていますから、なおさらその心を喜ばれるでしょう。十分の一というのは、目安です。
ですが、それほど裕福というわけではないけれども、信仰に立って、十分の一を捧げている方もおられるかもしれません。それは立派なことだと思います。しかしまた、それぞれに事情があり、必ずこうでなければいけないというものではありません。どう逆立ちしても、十分の一を捧げたら生活が成り立たないという場合もあるかもしれません。その場合は、心に決めた分をお捧げすればよいのです。大切なのは、すべての良き物は、神様から与えられていることを覚えて、与えられたものの一部には手をつけずに、神様にお返しするために取り分けておき、喜んで、また感謝をもって、また信仰をもってお捧げすることです。そして最後にもう一度、覚えておきたいことは、ヤコブがこのような形で自発的に神礼拝をしようと思った動機です。彼を神礼拝へと駆り立てたのは、生ける神様と出会った体験でした。その感動でした。しかも、彼の場合は、不安な旅の途中、後悔し、自分の罪を嘆いて、自業自得でこんな目に遭って、神様からも見捨てられたのではないか…と自分の罪を嘆いていたところに、神様から「あなたを見捨てない。わたしはあなたとともにいる」と救いの約束を頂いたことです。つまり福音です。
福音が、人に感動を与え、神礼拝に駆り立てずにはおかない原動力なのです。罪人のヤコブに示された神様のあわれみ、恵み、変わらぬ御愛。ヤコブが立派だから、品行方正だから、頭が良いから、善行を行ったから、神様が彼を見捨てない、ともにいる、と仰ったのではないのです。自分でも自分に愛想を尽かすようなとき、自分でも好きになれないこんな自分を、神様はなお愛して、愛想を尽かさず、ついには御子キリストをこの罪人の私を救うために、十字架に引き渡された。そしてこの福音を信じる者には、神様がともにいてくださるのです。人生の荒野のような場所で、一人きり、誰も助けてくれる人がいないと思われるところでも。神様が本当に身近にいてくださっているんだ、と知らされる体験、「まことに主がこのところにおられるのに、私はそれを知らなかった。」という体験は、私達を心からの神礼拝へと突き動かす原動力となるでしょう。
あまり体験だけを強調するのはよくありませんが、しかし主に出会ったという体験、目で見るわけではないけれども、本当に主が、近くにいて助けてくださったことがわかった、とか、あるいは罪を嘆く中で、十字架にかかられたキリストが心に迫って、だから、だからこそ、キリストの十字架なんだ、とわかった瞬間。あるいは、キリストを信じて永遠のいのちに与ったのだ、ということが、本当にわかった瞬間。そういう感動の瞬間、体験を恵まれた人は、確信が与えられますね。出エジプト記36:1-7は、私にとって福音の再発見をするきっかけとなった印象深い箇所です。その頃、教会が霊的に疲れているように感じていました。奉仕をするにも喜んで奉仕するという感じでない。喜びがない。どうしたら、喜びが回復するのだろう。そう悩んでいたときに、ちょうど説教箇所が、出エジプト記のその箇所になりました。そこには、イスラエルの民が、進んで幕屋作りの奉仕にいそしみ、来る日も来る日も進んで喜んで奉納物を捧げるので、ついにはもうもって来なくて良い、とお触れが出されるほどでした。
どうしてそんなにイスラエルの民が喜びにあふれていたのだろう、と思って考えて、その前の方をたどっていくと、そこには福音があったのです。この少し前、モーセが山で神様から十戒を授かっていたときに、ふもとでは民が金の子牛を拝んでいました。それで神様の怒りがくだり、神様はもう彼らとともに約束の地に上っていかない、彼らと一緒にいると、彼らの罪の余りのひどさのゆえに、彼らを滅ぼしてしまうから、と仰いました。それを聞いてイスラエルの民は、悲しみました。身に着けていた飾りを取り外し、嘆きました。もう神様に見捨てられたと思って。今さらながらに、自分たちの愚かさ、真の神様に愛されていながら、他の偶像を慕い、拝んでしまった罪深さを深く悔い、嘆きました。しかし神の人モーセが間に立って、自分のいのちを引き換えに差し出して執り成したので、神様は彼らを赦し、再び、彼らとともに約束の地まで守り、導いてくださると仰ってくださいました。そのあとです。彼らがあふれるばかりに喜んで、奉仕をし、捧げものを携えてきたのは。神様に見捨てられた、と絶望し、嘆いていたのが、神様のあわれみを受け、赦された。
神様はまた、自分たちとともに上ってくださる、と知ったときに、喜びに溢れたのです。失われていたのが、回復したときに、人は大きな喜びが沸き起こるのです。これは福音を原動力とした礼拝です。この世界も、アダムが神様に背を向けて以降、神様とともにいて頂くことのできないものでした。永遠に神様から切り離され、地獄に行くべきもの、神様に見捨てられたものでした。それが、時至って、神の御子ご自身が人となって世に来てくださり、私達の罪を身代わりに背負って十字架にかかられ、三日目に私達の初穂として復活されました。この御子の救いの御業のゆえに、信じる私達は、滅びからいのちへ、永遠に神様から切り離された者から永遠に神様とともにいる者へ、地獄から天国へと移されたのです!神様との交わり、関係が回復されたのです。和解したのです。神様が私達を愛して、神様の方から、救いを用意してくださったから。想像を絶する恵みです。この福音の感動は、年月を経ても色あせるものではありません。むしろますます満ちあふれるようになります。パウロ晩年の書簡、第一テモテ1:13-15(新約p406)1:13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。
それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。1:14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。この福音に心の目が開かれて、この感動を味わうことができますように、心から祈ります。