
キリストが、神と人とをつなぐ唯一の仲保者。
キリストのゆえに、神の御使いたちが私たち一人一人に遣わされ、仕えてくれている。
私たちの思っている以上に、神様は身近にいて、私たちを守り、導いておられる
「神を知らない者は海に行け」という古いことわざが西洋にあるそうです。船板一枚下は地獄という状況で大海原へ漕ぎ出し、そこで大波に揉まれでもしたら、その時初めて人は己の無力さを身をもって知り、腹の底から神に呼ばわらずには、いられなくなる。そういうことでしょうか。ヤコブも今、親もとを離れ、さしたる持ち物も持たず、神よりほかに頼るものなし、という状況で、遠く800キロも離れた母リベカの故郷ハランへの旅に出ました。しかも旅といっても、これはヤコブがあこぎなまねをしたため、後ろめたさを胸に感じつつの旅でした。しかも一人旅。当時は、狼や獅子やジャッカルといった4本足の野獣や、強盗のような2本足の獣が襲ってくる危険もありました。出発するときは、父イサクの祝福に送り出されましたが、一日二日と経って次第に故郷から遠く離れるにつれて、今更ながら心細くなり、不安と孤独を覚えたでしょう。そして家を出て、おそらく2,3日した頃です。(ここはベテルという場所であることがあとでわかるので、ベエル・シェバからベテルまでおよそ85キロですから、だいたいそれくらいでしょう。)
日が傾いて、夕空になると、いっそう物悲しさが感じられて、家にいたころ、母リベカの手料理の夕飯を囲んでいたことが思い出されます。やがて日も沈み、今日も石を枕に野宿となりました。ゴロンと横になって、一人、夜空を見上げて、何を思ったでしょうか。今更ながらに、あんなことをしたばっかりに、祝福どころかとんだことになってしまった。今頃、お母さんはどうしてるだろう。…それにしてもハランまで20日ほどの道のりと聞いたが、まだまだ旅は始まったばかり。無事にハランまでたどり着けるだろうか…。そんなことを思いながら、石を枕にして、目をつぶったでしょうか。もしかしたら、石の枕は夜露ならぬヤコブの涙で濡れていたかもしれません。そんなときでした。ヤコブがあの有名な夢を見たのは。12節に、一つのはしごが、地に向けて立てられていたとあります。よく雲の切れ目から太陽の光が地に向かって差し込んでいる、とてもきれいな、幻想的な光景がありますが、あのような感じでしょうか。英語ではあのことを「ヤコブのはしご」(Jacob’s ladder)また「天使の階段」(angel’s stairway)と言うそうです。
(「はしご」と訳された言葉は「階段」とも訳されます)聖書のこの箇所から取られた表現です。神の御使いたちが、そのはしご、もしくは階段を上り下りしています。孤独で、心細く、また元はといえば自分で蒔いた種でもあり、父を欺いて祝福をだまし取ったこんな自分を、神様が守ってくださるのだろうか、神様の祝福を願ってのことだったけれども、逆に神様に怒られて、呪いを招いてしまったのではないか、と不安におびえるヤコブのために、神様はこうして、そんなことはない、私は確かにあなたとともにいるのだ、と励ましてくださったのです。御使いを次々と遣わして、ヤコブが無防備で眠っている間も、獣や盗賊などが近づかないように守らせているということを見せて、視覚教材で、勇気づけてくださったのです。何ともあわれみ深い、神様です。このままでは、罪責感、孤独、不安、恐れに押しつぶされてしまいかねないヤコブをあわれまずにはいられない父なる神様です。たとえ自分で蒔いた種であっても、潰れてしまうことのないように、ここぞというところで慰め、励まし、支えてくださる。この神様の優しさが、たまりません。自分も何度、こういう経験を恵まれたことかと思います。
恵み深い神様が親しく私達に臨んでくださるのは、おうおうにして、こういう時です。神を知らない者は海に行け、でした。人間的な頼みをいっさい無くし、孤独で、不安や恐れの中に置かれたとき。心が痛むような、自分が責められるようなとき。そういうところでこそ、人は神に出会うものです。ヤコブも、そんな状況の中で主に出会う恵みにあずかりました。これだけでも、過分な上にも過分な恵みですが、夢はここで終わりませんでした。もっと驚く夢の続きがありました。夢の中で、ふと、かたわらに目を移すと、なんとそこに主がおられました。すぐ近く、すぐ隣です!肩を並べるようにでしょうか。そして今度は主ご自身が、直接ヤコブと語られて、確かな約束を与えられました。おそらくヤコブにとって、直接主なる神様から語られたのは、この時が初めてでしょう。神聖な瞬間でした。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。」ああ、このお方が、お父さんから、またアブラハムおじいさんからも聞いていた、あの主なる神様…。神聖な恐れに身の震える思いだったでしょう。主は続けてあの、最初アブラハムに、次にイサクに与えられた、契約の言葉をヤコブに語られました。
この地をヤコブとヤコブの子孫に与えること、子孫を地のちりのようにおびただしく増やし、全地に広げること、そして地上のすべての民族は、その子孫によって祝福される事…。そしてヤコブには特別な約束が与えられます。15節「見よ。わたしは、あなたとともにいる。そしてあなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、わたしはあなたをこの地に連れ戻そう。…わたしは決してあなたを捨てない。」あなたの旅路が守られるのは、あなた自身の力によるのではない。わたしがあなたの旅路を守り、わたしがあなたをこの地に連れ戻す。わたしが、あなたに約束したことを成し遂げるまで、わたしはあなたを決して捨てない。わたしが、わたしが、わたしがと、もっぱら主ご自身がヤコブの旅路を守り、約束を成就すると仰っているのです。私達の信仰の旅路を全うして、天の故郷に帰らせ、約束の栄光の御国を継がせてくださるのは、主なる神様です。全能の神様のそのお約束にもう一度より頼んで、鈍りがちな信仰の足取りを力づけられたいと思います。
12節に「一つのはしごが、地に向けて立てられている」とありました。「地に向けて」ということは、天から地に向けてということです。天から地に向かって。すなわち神様の方から人に近づくために、人を救うために、人をあがなうために、地に向けてのばしてくださった道。それは天から降りて人となってくださった私達のあがない主イエス・キリストです(ヨハネ1:51)。今や、キリストという道を通って、誰でもいつでもどこででも、神様の御前に出ることができる。キリストこそ、罪によって神様から遠く隔てられた人間の世界と、天とを結ぶ唯一の道です。ヨハネ14:6、新約p209。イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。また第一テモテ2:5-6、新約p407。2:5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。天からの祝福や恵みはすべてこのイエス・キリストを通して私達に与えられます。
また地上から天に上げられる祈りや賛美や願いもすべてこのキリストを通してでなければ、天に受け入れられません。神様の御座である天と地上との間で、聖なる神様と罪人との交わり、行き来が親しくなされるのは、ただただ神の御子が、十字架の死によって、信じる者の罪を取り除いてくださって、天と地を繋ぐ階段となってくださったからです。
神の御使いが天から地上に遣わされるのも、この御子キリストの尊い贖いの御業が無駄にならず、私たちの救いが全うされるためです。神の御使いは、信じる私たちのために仕える霊です。ヘブル書1:14(新約p425)御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。また詩篇34:7(旧約p936)。【主】の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。今日も、御使いは私達の気づかないところで、私達のために働いてくれているのでしょう。彼らは今も、この会堂を取り囲んで、あるいは皆さんのおられる家を取り囲んで、私達の捧げる礼拝を見守っているでしょう。また見えないところで、悪しき者とも戦い、守ってくれているのかもしれません(参考ダニエル書10:13)。ドイツのエルベルフェルトという所にサンダーという牧師がいました。彼は、大罪を犯して山に隠れている犯罪者説得のために、単身で遣わされることになったそうです。ところがその隠れ家に行くためには一本の丸木橋を渡らなければなりませんでした。それでその犯罪者は、草むらに隠れて、その丸木橋ごとサンダー牧師を谷底に落とそうと待ち構えていました。
何も知らないサンダー牧師は、近づいて丸木橋の上に一歩足を踏み出しました。しかしその瞬間、犯罪者はおのれの目を疑いました。丸木橋の上を渡り始めたサンダー牧師の後ろには、いつのまにか、もうひとりの人物がついていたのです。その不思議な光景に恐れた犯人は、あわててその場から逃げました。後日、悔いて自首した彼は、その日のことを語り「あのもう一人の御方は誰ですか。」と尋ねました。するとサンダー牧師は「それはいったい何のことですか。私は一人で行ったのに…」と答えながら、思わず神聖なことを直感して厳粛になりました。彼の知らないうちに、神様は御使いを遣わして守ってくださっていたのだ、と思い当たったのです。このようなことはヤコブやサンダー牧師のような特別な人にだからだろう。自分のような平凡な者のために、御使いが仕えていてくれるなんて、と思うかも知れません。しかしイエス様は幼子達を指さして仰いました。マタイ18:10(新約p36)彼らの天の御使いたちは、天におられる私の父の御顔をいつも見ているのです。老若男女を問わず、ご自身の子たちには一人も漏らさず御使いを遣わして、一人一人の救いを全うするというのが、神様の御心です。
まるで一国の首相か大統領のような、いわゆるVIPのように、御使いというボディーガードを張り付けて私達の地上の旅路を守ってくださっているのです。VIPというのはvery important personの略で「とても重要な人物」という意味ですが、キリストの救いにあずかった者はみな、神様の御目にはかけがえのないVIP「とても重要な人物」で特別待遇です。何しろ、霊の目で見れば、イエス様を信じる者はみな、神の王子、王女なのですから!キリストを信じ、心に受け入れた人は、神の子とされたので、みな神の王子・王女なのです。ヨハネ1:12(新約p172)しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。霊の目で見れば、キリストを信じる者はみな、神様の王子、王女なのです。そのゆえに、御使いたちも私たちに仕え、天の御国を受け継ぐようにあらゆる悪から守ってくださるのです。
そしてそれ以上に忘れてならないのは、御使いたちだけでなく、主ご自身が私達とともにいて、私達を守ってくださると仰っていることです。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と主は弟子たちに仰いました(マタイ28:20、新約p63)。使命を帯びて遣わされるとき、あるいは主の御心、主の御言葉に従うとき、主がともにおられるとお約束をもって励まされます。主に従うとき、恐れを感じることがあるからです。従うことによって、周りがどういう反応をするか、物事がどうなっていくのか、往々にして人間的な見通しでは好ましくないことになりそうなときがあります。そんなとき、主に従うのは、勇気がいります。恐れを感じる事があります。だからこそ、「わたしはあなたとともにいる」という、このお約束が与えられているのです。主がともにおられるという約束は、大きな力です。他方で、でもそれは、世界宣教の使命を帯びて出ていく使徒たちに与えられた約束。自分のような者には…と思われる方もおられるかもしれません。このときのヤコブのように心に責めのあるときは、特にそうかもしれません。自分がこうなったのは、自業自得だから…と。しかしイエス様は仰いました。
マルコ2:17、新約p67…「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」悔いた罪びと。それこそ、主が探し求めておられる魂です。主はその人のところに来られて、ともにいてくださいます。主は、痛んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない方です(マタイ12:20、新約p22)。主は、打ち砕かれた魂を軽んじることは、決してありません(詩篇34:18、旧約p936、詩篇51:17、旧約p955)。このときのヤコブのように。これは次回見る16節になりますが「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」とヤコブは言いました。彼は、一人旅ではありませんでした。ちゃんと主がそばにおられたのです。ヤコブは、主がこれほど近くにおられることをこの時初めて、気づきましたが、その前からずーっと主はヤコブのそばにおられました。私達も、目には見えませんが、すぐ近くに主が伴っておられ、また御使い達も仕えてくれていることを覚えて、一週間の旅路へと送り出されたいと思います。