
主の御心を仰いで、すべてに優先させる。
主の御心を仰いで、罪を思いとどまる。
時代劇ですと、お殿様の跡取りの座を巡ってそれはそれは陰険で、非情な策略が渦巻きますが、今日の所もなにやら似たような、いわば「イサク家のお家騒動顛末記」といった観の所となりました。家長イサク、その妻リベカ。で、二人が祈りに祈って20年。ようやく与えられたのが双子の兄弟で、先に生まれてきたのが毛むくじゃらの兄エサウ、後からエサウのかかとをつかんで出てきたのがツルツル肌の弟ヤコブでした。神様は、二人が生まれる前、リベカに「弟ヤコブの方に神の民たる祝福を与える」と告げていました。やがて二人が成長すると、兄エサウは元気溌溂、野に出て弓を振り回しながら獲物を追って走り回るのが大好き、だけども後先をあまり考えない衝動的なタイプ。弟ヤコブは、思慮深く、おとなしく家の中にいるのが性に合っているタイプでした。イサクは、神様のお告げをおそらくリベカから聞いていたでしょうが、狩りで仕留めた肉料理が好きなこともあって、胃袋をつかまれていたのでしょうか、猟師の長男エサウがお気に入り、反対にリベカは物静かな次男ヤコブがお気に入りでした。
そんな中で、視力の衰えや身体のあちこちに老いを感じ始めたイサクは、神様の民たる契約をバトンタッチするべく、エサウを呼び寄せました。神様はエサウでなくヤコブの方を選んでおられるのです。しかし祝福を授ける権限を与えられている家長のイサクはエサウを祝福しようとしているのです。さて、どうなるのでしょう。イサク家お家騒動の始まり、始まりです。イサクはエサウに言いました。「私は年老いて、いつ死ぬか分からない。だから今、野に出て行って、私のために獲物を獲ってきてくれないか。そして私の好きな、おいしい料理を作って食べさせくれ。私が死ぬ前に、私自身がおまえを祝福するために。」(2-4節)イサクも、日頃はエサウとヤコブと二人のために祝福を祈っていたでしょう。ヤコブが憎いわけではありません。ここでいう祝福とは、先ほど言った特別な祝福、イサクが父アブラハムから受け継いだ神の民の契約のことです。二人に相続できれば良いのですが、このときは一人だけでした。ちょうどこの時、この会話を陰で聞いていたのでしょう、リベカが「これは一大事」と、かわいいヤコブのための一心で、自ら率先して夫イサクを欺きヤコブに祝福を継がせようとします。聖書版オレオレ詐欺です。
エサウが出かけていた後、リベカは策略を巡らして忙しく立ち回ります。まごまごしてたらエサウが帰ってきてしまいますから、なんとかその前にカタをつけないといけません。カクカク、シカジカと今聞いたいきさつをヤコブに告げ、有無を言わせぬ勢いで8節「私があなたに命じる」と迫ります。ヤコブは、さすがにそれはバレるでしょう、エサウは毛むくじゃらで私の肌はツルツルですから。そんなことをして、もしバレたら、祝福どころか呪いを受けることになってしまいますよ、親をだますとは何事だ!と、、、と尻込みします。ところがリベカは構わずグイグイ押します。13節「あなたの呪いは私が受けますから、つべこべ言っていないでただ、私の言うことを黙ってよく聞きなさい。」ヤコブはリベカに押し切られて従います。リベカは家畜の羊でイサク好みの料理を作り、エサウの晴れ着をヤコブに着せ、さらになんと子ヤギの毛皮をヤコブの手と首のツルツルのところにかぶせました。手の込んだというのか、雑なのか。こんな子供だましで、本当に大丈夫なのか、ヤコブも今ひとつ心配だったでしょう。
しかしそんなヤコブの心配をよそに、リベカは今作ったばかりの料理とパンをヤコブの手に渡して、さあ、行きなさい、とポンと背中を押しました。ヤコブは内心ビクビクしながら、父イサクの前に出ます。ヤコブ一世一代の大芝居。18-29節は、手に汗握る二人のやりとりです。ヤコブは大きく息を吸って、勇気を振り絞って「おとうさん。」とまずはひと声、発しました。イサクは「おお、わが子よ。誰だね。おまえは。」と尋ねます。ヤコブは意を決して「私は長男のエサウです。私はあなたが言われた通りにしました。さあ、起きてすわり、私の獲物を召し上がってください。ご自身で私を祝福してくださるために。」とウソをつきました。良心の苦しさを感じながら。するとイサクはけげんに思ったのか、「どうしてこんなに早く見つけることができたのかね。」と問います。ヤコブは一瞬ドキッとしたものの、とっさに「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」とまたウソをつきました。神聖な神様の名前まで利用して。一つのウソは、別のウソを生みます。イサクは不審に思いました。目は衰えても、頭はまだまだ健在です。
エサウの口から「神、主がそうさせてくださった」なんて信仰的な言葉が出るとは、、、。これはヤコブが言いそうなこと。だいたい声がヤコブだ。そう怪しんでヤコブに言いました。「近くに寄ってくれ。わが子よ。私は、おまえが本当にエサウであるかどうか、おまえに触ってみたい。」それを聞いてヤコブは心臓が飛び出るくらい緊張しながら、ここまで来たらやるしかないので思い切って、父イサクに近寄ると、イサクは彼に触り、言いました。「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」羊の毛でナントカ切り抜けました。それでイサクは彼を祝福しようとしましたが、やはりまだひっかって、またまた「本当におまえは、わが子エサウだね。」と念を押しました。ヤコブは答えました。「私です。」またウソを重ねました。三度目です。ペテロのようです。イサクはそれで、祝福する儀式に移ります。まず、ヤコブが持ってきた料理を食べます。しかし何かおかしい。いつものエサウと違う。それはそうです。当然です。父イサクは最後の最後にもう一度ヤコブに「わが子よ。近寄って私に口づけしてくれ。」と言ったので、ヤコブは近づいて彼に口づけしました。
するとイサクは、ヤコブの着物の香りをかぎ、ようやく彼を祝福したのでした。「ああ、わが子のかおり。主が祝福された野の香りのようだ。神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟達の主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。おまえを呪うものは呪われ、おまえを祝福するものは祝福されるように。」(27-29節)こうしてヤコブは、イサクから神の契約の祝福をだまし取ったのでした。
イサクはなぜ、エサウに主の契約を継がせようと思ったのでしょう。リベカがイサクに、主の言葉を伝えていなかったのでしょうか。こんな重大なことを伝えていなかったとは考えにくいです。他方、イサクなら、その主の言葉を知っていたら、最初からヤコブにしたのではないかとも、思われるところです。確かなところはわかりません。しかし、完全な人はいません。もしかしたら、人間的な情がイサクの判断を誤らせたのかもしれません。イサクがリベカからあの言葉を聞いていたかどうかは別にして、そもそも客観的に見て、エサウは神の契約を受け継ぐにふさわしかったのでしょうか。お腹がペコペコだからといって、一杯の煮物と引き換えに長子の権利を売ったエサウ。そのときそのときの気分で、後先考えずに大切なものを手放す男です。刹那的というのか、衝動的というのか、目先のことだけというか。新約聖書で俗悪なエサウと評されているのは、前に見た通りです(ヘブル書12:16)。26:34-35では、エサウは2人の妻をめとり、彼女たちがイサクとリベカの悩みの種になったとありました。気に入ったら一人でも二人でも、手当たり次第、迎え入れる。
しかも、敬虔なイサク・リベカ夫婦の悩みの種となるような種類の女性。エサウは、信仰的な人物ではなかったように思えます。イサクは、もし仮にリベカから聞いていなかったとしても、少なくともエサウでいいのかどうか、どちらに譲るべきか、主の御心を求めて祈るべきでした。そしたら主が答えられたでしょう。それをせずにエサウを選んだとしたら、それはイサクの人間的な思いだった。情に流されて判断を誤ったと言わざるを得ないでしょう。イサクもエサウを溺愛していたのかもしれません。確かにエサウに「神様の契約は、ヤコブに譲ることにした」と言うのは、つらいことでしょう。お気に入りの息子です。身を切るような痛みでしょう。しかし主の御心を仰いで、主の御心が最善であると信頼して、従うべきでした。主の御心の前には、すべてのものが道を譲るべきなのです。それが結果においても最善なのです。この点、以前見たアブラハムは、肉において愛するイシュマエルとその母を荒野に追い出すようにと主から言われて、それも辛かったと思いますが、従った結果、イシュマエルはイシュマエルで大いに祝福されたのでした。さすが信仰の父アブラハムの本領発揮でした。主の御心が最善だったのです。
それと比べて、イサクのこの誤った判断のために、リベカとヤコブは策略を巡らし、イサクをだまして祝福を奪い取るという無用な罪を犯してしまうこととなり、次回見ますが、それがもとでエサウはヤコブに殺意を抱くに至って、ついにヤコブは家を出て長い旅に出ることとなります。ヤコブが出ていった後のこの家庭はなんとも後味の悪い日々を送ったでしょう。そんなペテンのような手段に訴えたリベカとヤコブの不信仰も責められるのですが、また彼女たちがグルになってイサクを欺かなければならなくなったことの責任の一端は、いや、大本はイサク自身にあったと言わなければならないでしょう。イサクは、自分の思いを十字架につけてでも、主の御言葉に従うべきでした。主の御言葉に背くことは、混乱、悲劇を生むのです。イサクがはじめからヤコブに継がせるつもりでいれば、何の問題もなかったのです。主の御心がすべてにまさる。主の御心を仰いで、そう告白する信仰、主に対する信頼を持ちたいものです。
イサクは、祝福の契約をエサウに受け継がせるつもりでした。しかも、最後の最後までイサクは、何度も何度も目の前の人物が本当にエサウなのか念には念を入れてチェックして、匂いまでかいで、イサクは確かにエサウを祝福したつもりでいました。ところがそれでも結果的には彼はヤコブを祝福していた。実現したのは、イサクの思いではなく、神様の御言葉だったのです。上手の手から水が洩れることがあっても、神様の御手からは、水一滴、漏れることはありません。主が祝福すると決めた人を、ひとりも漏らさず、必ず祝福されます。これはリベカが知恵を働かせて、立ち回ったからだ、リベカが主の言葉を成就させたのだ、と言うのは間違いです。リベカが何もしなくても、ヤコブに祝福は渡されたでしょう。むしろその方がよりよい形で祝福されたでしょう。リベカはヤコブを溺愛するあまり、取ってしまった行動でしたが、本当の愛は不正を喜ばずに、真理を喜びます(第一コリント13:6)。リベカの取った行動は、十戒に反することであり、結果、大きな禍根を残すことになりました。リベカは、「兄が弟に仕える」という主の言葉を直接、頂いていました。ならば、その御言葉に堅く立つべきでした。
カルヴァンは、彼女は神の御言葉を受けていたのだから、このような手段に訴えるのでなく、ただ神が成就してくださるのを待ち望むべきだった、と言っています。しかしそれに対して、「いや、そうはいっても、この期に及んでは、何もしないでいたら祝福はエサウのものになってしまうではないか。」と危惧する声もあるかと思います。しかしカルヴァンはそういったリベカ擁護の声に対して、旧約聖書の民数記22章(旧約p271)の預言者バラムの例を挙げて反論します。バラムという預言者が、敵からイスラエルの民を呪ってくれと言われた時に、欲に目がくらんだ彼は敵の王といっしょに、丘の上から呪うためにイスラエルの宿営を見渡していました。ところがイザ、その時になると、バラムに神の霊が臨んで、彼の口から出たのは、イスラエルを祝福する言葉でした。だから最後の最後の瞬間に、イサクがエサウを目の前にして、祝福の言葉を発する寸前でも、神様は聖霊よってイサクの口からヤコブを祝福するようにされるとカルヴァンは言うのです。人間的には万事、窮すの大ピンチの時でも、神様の御心は必ず成る。主の御心を仰いで、罪を思いとどまり、ただ主に信頼するべきだったということでした。
私たちは、神様の御心よりも、自分の思い、自分の考えを優先させてしまいがちです。それでも主の御心は揺るぐことなく、実現しますが、できれば私たち自身も、主の御心を仰いで、主の御心にかなった、祝福の道を歩ませていただきたいものです。主の御心の究極は、イエス・キリストの十字架にあらわされています。この神様を信頼して、この神様の御心をすべてにまさって優先させ、従い、神様の栄光を仰ぎ見る幸いにあずかりたいものです。