
私でなく、ともにおられる主が支え、守り、祝福してくださる
ききんのためにゲラルの地に滞在していたイサク。神さまはききんの中でもイサクには百倍の祝福を与えられました。ところが、それが地元ペリシテ人たちの妬みを買うことになり、アビメレク王も抑えきれないと思ったか、あるいは力をつけてきたイサクを恐れてか、出て行ってくれ、と立ち退きを命じました。場所を移して谷間の方に行っても、井戸を見つけるたびに地元の性悪羊飼いたちから嫌がらせを受けて、その都度、退いては新しい井戸を見つけて掘って、と何度か繰り返すのでした。そして、何度かそんなことを繰り返して後、ようやく与えられた場所。そこでは井戸を見つけても、地元ゲラルの根性悪の羊飼いたちの嫌がらせを受ける事なく、しばし平安な日々を送っていたことでしょう。イサクはその地を「レホボテ」広々とした場所という意味の名をつけました。しかしやがて、ききんが収まったのでしょうか。イサクはそこからベエル・シェバに再び上りました。そこは約束の地カナンの南の端にあたります。日本で「北は北海道から南は沖縄まで」というように、昔イスラエルでは「ダンからベエル・シェバまで」と言いました。ダンが北の端、ベエル・シェバが南の端です。
またそこは、かつてアブラハムとともにイサクが長らく住んでいた場所でもあります。アブラハムがそこに柳の木を植えて、腰を据えて住んだ場所です(21:-34)。レホボテも落ち着いた生活ができていたのかもしれませんが、そこはいつまでもいるべき場所ではない。やはりききんが収まったら約束の地に戻る。神さまは、カナンの地をアブラハムとその子孫に与えると仰ったのだから。イサクは、神さまから頂いた約束を忘れない、神さまからの約束に留まることを常に心に決めていたのでしょう。しかし、ききんのためにあとにした場所に戻るというのは、不安もあったのでしょう。レホボテではそれなりに必要が満たされ、祝福されていた。その生活を後にすることは、勇気のいることです。そこで、信仰の決断をしたイサクを、主なる神さまも御言葉をもって励まされました。しかもイサクがベエル・シェバに上ったその日、その夜にです。24節「【主】はその夜、彼に現れて仰せられた。『わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。』」
これまでにも語ってこられた祝福の言葉を、再度繰り返されたのでした。宗教改革者のカルヴァンは「聖なる人イサクにとって、多くの泉や幾千万と積み上げられた財産よりも、主の御言葉一つのほうがはるかに重みのある、貴重な、また必要なものであった」と注釈しています。信仰をもって聞かないと、ただのむなしい言葉でしかない。しかし信仰をもって聞くなら、それは計り知れない力また助けとなる。神のことばとは、そういう面があるものでしょう。ある意味、御言葉が真価を発揮するかどうかは、受け取る側にかかっていると言うこともできるかもしれません。イエス様はよく「あなたの信仰が、あなたをいやしたのです。」と仰っておられました。ヘブル書の記者も言っています。4:2-3(新約p427)4:2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。4:3 信じた私たちは安息に入るのです。・・・
せっかく与えられている主の恵みの言葉を無駄にしないよう、右から左でなく、神のことばであることをしっかりと覚えて、信仰を働かせて受け取り、実際の生活の中で力とし、支えとすることができますようにと願わされます。イサクは、そのときあらわれてくださり、御言葉の約束をもって励ましてくださった神さまを覚えて、そこに祭壇を築いて主を礼拝しました。25節「イサクはそこに祭壇を築き、【主】の御名によって祈った。」襟を正して、改めて主を礼拝したのでした。私たちの生涯にも、何度か、こういうときが必要かもしれません。個人的な宗教改革といいますか、心機一転、あるいは一念発起、心を入れ替えての悔い改めの決心、祭壇を築くというのは、今日で言えば祈りの時、礼拝の時を持つということです。いつのまにか、惰性に流れていたかもしれない、いつのまにか単なる習慣になっていたかもしれないのを、祭壇を築き直して、心新たにして主を礼拝する。あるいは、新しい環境に踏み出すときに、また踏み出したときに、改めてデボーションの決心をするというのも、祭壇を築く事の一つかもしれません。時々、神さまとの関係を正すそのような決心のときが恵まれますように。
こうして神さまとの関係を改めて確かなものにしたイサクは、さらに祝福の道を歩むこととなりました。かつてゲラルで自分を追い出したアビメレク王が、友人と将軍を引き連れて、わざわざベエル・シェバのイサクのところにやってきました。今度はイサクはよそ者ではありません。ゲラルに場所を借りる居候ではありません。イサクはアビメレク王たちに言いました。27節「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。あなたがたは私を憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。」これくらいのことは言って良いでしょう。こういうことが言えるだけの立場というか、力を十分につけていたということでもあります。それに対して彼らは、私たちと平和条約を結んでもらいたくて来たのですと言いました。28-29節「私たちは、【主】があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。それは、私たちがあなたに手出しをせず、ただ、あなたに良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないということです。
あなたは今、【主】に祝福されています。」争いを好まず、身を引くばかりだったイサク。自分で復讐しようなどとは思わないイサクに、主なる神さまがこうして、相手の方から頭を下げて、頼みに来るように、立場を逆転させてくださったのです。それも、端から見ても、主がイサクとともにおられ、主がイサクをいわば特別扱いしている、特別に祝福しておられるのが、あきらかに見て取れるから、というのです。背後に神さまがついているんじゃ、勝ち目はない。そのうち、力をもっとつけてきたら、こっちに進出してくるかもしれない、嫌がらせを受けた仕返しに来るかもしれない、今のうちに先手を打って平和条約を結んでおこう、というのでしょう。イサクは、彼らを赦し、彼らとの平和条約に応じました。30節にあるように、いっしょに飲み食いすることは、当時の契約のやり方だったようです。いつまでも根に持たずに、和解に応じるイサク。こうしてイサクは、彼らを送り出し、彼らは平和のうちに帰って行ったのでした。平和の人イサクです。平和を愛する人イサクです。こう言う人を神さまは祝福せずには、おきません。32節「ちょうどその日」とあります。和解して、平和の条約を結んで彼らを送り出したその日でしょう。
イサクのしもべたちがまた、井戸を掘り当てたとグッドニュースを持ってきてくれました。「私どもは水を見つけました。」もしかしたら、かつてアブラハムが掘った井戸の再掘かもしれないと言われます(参照21:30-31)。かつてアブラハムも、ここで先代のアビメレク王の方から平和条約を結んでくれと言われて、そのときにそこにあった井戸がアブラハムのものであることを覚えるために、七頭の雌羊をアビメレク王に贈り、それにちなんでベエル・シェバと名付けたということがありました。ベエルは井戸、シブアもシェバも七の意味です。二代目イサクは、先代アブラハムの井戸を掘り起こし、そこにアブラハムがつけたのと同じ名前をつけて残した。立派な二代目でした。こうして主の恵みを受けていたイサクでしたが、最後の34-35節には、そんなイサクの家庭にも問題があったことを伺わせます。罪ある世にあっては、天国のように問題と無縁ということはないのだなあ、と改めて思わされるところです。これは次の27章のストーリーの伏線ともなっています。
アビメレク王は、「主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。」と言いました。それが、アビメレク王をしてイサクを恐れしめ、わざわざ自分から出向いて平和条約を願い出るまでにしたのです。しかし当のイサクという人は、何度も言っていますが嫌がらせを受けても仕返しをするでもなく、けんかを仕掛けられても受けて立つわけでもなく、そのたびにおとなしく場所を移していたような人です。およそ勇ましいといったタイプとは程遠い、おとなしい、穏和な人だったのでしょう。そんなイサクを、なぜアビメレク王は恐れたのでしょうか。それはひとえに、主がイサクとともにおられるのを見たからです。ききんの中、イサクだけは百倍の収穫を得たということ。力に物を言わせて何かをするというわけでもないのに、力をつけていっていること。そして、せっかく井戸を掘り当てても、地元の羊飼いに嫌がらせをされると、そこを去る。しかし去って行った先ですぐに井戸を見つける。それも何度も。そう簡単に見つかるはずのない井戸が次々と見つかる。そんなことにも、神がともにおられると感じたのでしょうか。イサクは非常に裕福になったとも言われていました(13節)。
それも、イサク自身の勇猛さや能力、才能で、力尽くで勝ち取った富なら、こうはならなかったのかもしれません。イサク自身は柔和で、引いて、争うことをしない。そんなイサクを、目に見えないどなたかが、大事に守っておられる。退く先退く先で、井戸を与えて。だからこそ、アビメレク王は、主がイサクとともにおられると、感じたのです。主がともにおられるというのは、こう言う事か、と思わされます。ある方は「倒れそうで倒れないのがクリスチャンだ。」と言いました。弱そうでいて実は強いのがクリスチャンだ、とも。そしてなぜそのような、微妙で、一見捕らえどころのない生き方が生まれてくるのかというと、それはひとえに、その拠り所とするものが、自分自身の内側にはなく、自分の外側に、すなわち自分以外の、他のなにものかに置かれているからではないかと言っていました。だからこそ、「私が弱いときにこそ、私は強い」と言う逆説が出てくるのでしょう。使徒パウロは言いました。Ⅱコリント4:8-9(新約p349)4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。同じくⅡコリント12:9-10(新約p360)12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。信仰者の強さの秘訣は、自分が強いのではなく、ともにおられる主が強いということに気づくことです。自分がつぶれても、ともにおられる主が強ければ、「倒されますが、滅びません。」とパウロとともに告白する事ができるのです。私たちも、それぞれの人生の中でゲラルのような試練のときがあるかもしれません。そのようなときにも、主がともにおられることを信じ、主により頼むことの醍醐味を味わわせていただきたいものです。むしろ自分の弱さを通して、ともにおられるキリストのすばらしさがあらわれますようにと願いたいものです。