私たちの教会が、今日この「教会設立32周年記念礼拝」を迎えるまで、確かに歩み続けることを許され、今一人ひとりがこの場にいること、それは計り知れない神の恵みによることである。いったい何によって、これまで支えられてきたのか。それは「みことば」を待ち望む(詩篇 119:81)ことによってであり、また「わたしはあなたとともにいる」との約束(マタイ28:20、使徒の働き 18:10)に、励まされ、導かれたからである。そして、今朝は、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。・・・主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(1〜2節)と歌われる、この「みことば」に耳を傾け、教会の歩みを振り返ってみたい。
「何一つ忘れるな」と言われても、そんなに覚えてはいない、忘れているのもまた現実である。「あかし集2009」には、教会設立30周年ということで、設立前史と後史としての歩みをまとめたものの、抜け落ちたことがたくさんあって、それらを補い、また満たすことは容易でないと感じている。一方で、記録に残さない限り記憶は失われると言われ、教会の歴史は、どのように保存されるのかと、心配も大きくなっている。おそらく一人ひとりの人生においても同じで、家族の大切なことなど、どのように後に伝え、残すのか、皆それぞれに考えることであろう。実際には、いろいろな経験をしながら、それを「主の良くしてくださったこと」として覚えているのか、それとも忘れてしまったのか、そのことをこの詩篇は、立ち止まって思い巡らすように勧めている。
そして、私たち人間は、どんなに取るに足りない者であるか、それに比べて、主なる神の恵みとあわれみは、底なしで無限であることを思い返すようにと、賛美の言葉が続く。(6〜14節)そのような理解が、この詩篇を最後まで貫いている。(15〜22節)主が目を留めてくださるからこそ、私たちの幸いは揺るがない。主に支えられる者にできること、それは賛美である・・・と。「主をほめたたえよ。すべての造られたものたちよ。主の治められるすべてのところで。わがたましいよ。主をほめたたえよ。」小さな小さな、ちりに過ぎない私たち人間であるが、私たちの賛美を、主が受けて下さり、喜んでくださるとは、何とも不思議、驚くべきこと! ならば私たちも、心して、恵みを数え、「主の良くしてくださったこと」を、何一つ忘れないことを、心掛けたいのである。
私たちの群れから独立した教会の分裂であったが、直接の関わりが残り、私たち自身が多くの痛みを経験し、乗り越えるのは容易でなかったと、今さらながら思わされる。また今もその渦中にあると自覚している。その後17年となるが、主の支えがあってこそ、私たちの教会は歩んで来られたと、心から感謝するばかりである。しかし、痛みの出来事さえも「主の良くしてくださったこと」なのか・・・と問い返しては、「いつも喜び」「絶えず祈り」「すべてのことについて感謝する」ことと、どのようにつながるのか、今年度は、課題をいただいたように思う。そして、痛みや苦しみの時に、主が共におられ、共に歩んでくださると知ること、これが、「主が良くしてくださったこと」を忘れない秘訣であり、恵みを数えるカギと気づかされる。どんなに物忘れが激しい者でも、苦しみのことは忘れないなら、そのような時こそ、神が共におられたと気づくことによって、必ず恵みに目が開かれるからである。その間、隣地購入と牧師館取得は特別な恵みと、これによって大いに励まされた事実も忘れられない。
一人また一人と、主が確実にご自身の民を招き、確かな信仰に導かれたので、今この教会があることを喜びたい。時に受洗者のいない年があり、寂しい思いもした。けれども、救ってくださるのは神ご自身であり、私たちではないとしたら、その事実を良しとされたのは、神である主ご自身である。私たちは、常に「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」との教えに従い、これからも歩み続けたい。喜びの時に感謝にあふれ、悲しみの時には、祈りをもって神を待ち望み、辛いときこそ、主が共におられることの幸いに支えられて、歩み続けたいのである。
