2011年度を歩み始め、今年はその4月に受難週とイースターを迎え、主イエスの十字架の死と、死からのよみがえりが私たちの信仰の根幹であると、改めて覚えることが導かれた。そして5月には、「日本長老教会創立記念礼拝」と、私たちの教会の「教会設立32周年記念礼拝」が続けて巡ってくる。神が教会を建て、そこに私たちが呼び集められ、その教会によって、私たちは養われ、育まれている幸いを感謝するばかりである。今朝は、今年度の主題聖句に目を留め、そのみことばによって、私たちの心を整えられたいと願っている。
この手紙全体に流れる教えは、教会の一致についての勧めである。一致を脅かす問題が生じていたからである。パウロにつくのか、それともケパに、いやアポロに、いやいや私はキリストに・・・と、事態はかなり深刻であった。教会はそのような分裂騒ぎを起こせるほどに、多くの人が集まり、成長を遂げていたのも事実であった。けれども、その成長は、目に見えることに心を奪われる、本質を見失う性質のものであった。それゆえに、「十字架のことばは」と語って、イエスの十字架の事実とその意味の大切さに、今一度立ち返るよう諭している。主イエスが十字架で死なれたこと、その身代わりの死こそ、救いの原点であり、その死こそが罪の赦しをもたらしていることの重さを、心を込めて語ろうとした。主イエス・キリストの十字架を空しくしてはならない・・・と。
パウロは、旧約聖書に親しみ、戒めを行い、何とかして救いに入りたいと、それはそれは熱心であった。しかし、その熱心は、自分を誇り、他の人と比べているだけのものと気づかされた。よみがえった主イエスに出会ったからである。そのイエスこそキリスト、約束の救い主と悟ったことによって、彼の人生は大転換を遂げた。人が愚かと退けていた十字架こそ、「神の力」であり「神の知恵」と、心から信じた。イエスの死は、それで終わらず、イエスは死からよみがえって、今生きておられる。生きておられる方を信じる信仰には、大きな力、不思議な力があふれていた。その信仰は、誰をも隔てず、誰をも拒まず、すべての人を招く、真に開かれたものである・・・と、彼は心から信じた。私たちも、今一度、その確かな福音に生き、また生かされていることを悟りたい。そして、この福音を宣べ伝える使命を与えられていることを覚えたい。
祈ることを知った者は、必ず幸いな経験をする。祈りが聞かれることの幸い、その確かさを味わうことになり、そして、「感謝」に導かれる。だから、「すべての事について、感謝しなさい」と勧められている。現代社会は、感謝することより、権利を主張し、求めが聞き入れられないからと抗議し、不平や不満をより煽る、そのような傾向が強い。そのような時代に生きているからこそ、みことばが命じていることとして、「キリスト・イエスにあって神が望んでおられること」、「いつも喜び」、「絶えず祈り」、「すべてのことについて感謝する」ことを、私たちの大切な課題とすべきと気づかされる。私たちには、いつも喜びがあり、足りない時には、祈りをもって、神に頼る道が備えられている。神に祈る者は、全知全能の神を待ち望むのである。その神の助けは絶大である。そして、神に助けられた者は、感謝に溢れるのである。
(※コリント第二6:1〜10、ピリピ4:11〜13)
私たち一人ひとりが、どんなに小さく、この世で取るに足りない存在と思えても、その私たちが、喜びをもって生きているなら、そして祈りつつ歩み、感謝にあふれて生きているなら、神は私たちの存在を喜んでくださるのである。必ず、私たちを用いて、ご栄光を現される。私たちの小さな証しを用いて、神が福音の前進を成し遂げてくださるに違いない。この所沢の地にあって、ご自身の民を、なおも召し集めてくださることを期待し、私たちの祈りや働きを、主にささげたい。必ず実を結ぶことを信じて!
