毎年、必ず巡ってくるクリスマス・・・、私たちは今年、どのような思いで迎えることができたであろうか。それぞれに思い出のクリスマスがあるに違いない。そして、クリスチャンになる前と後では、随分違ったクリスマスとなっているのではないだろうか。今年は、12月になってすぐクリスマスの聖書箇所を開かなかったので、いつもと、また少し、気持ちが違っているかもしれない。いろいろな思いが交錯する中で、先週に続いて、最初のクリスマス、救い主のお生まれの出来事に目を留めてみたい。
ヨハネの誕生に神の御業を見て、大きな励ましを得ていた二人に、厄介なことがのしかかっていた。それは「全世界の住民登録をせよ」との勅令であった。その命令に従って、「人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。」マリヤとヨセフは、ガリラヤのナザレから、ベツレヘムへと旅を強いられることになった。時のローマ帝国は、皇帝アウグストによって繁栄がもたらされ、人々は平和を享受する幸いを得ていた。けれども、一方で平和と繁栄がある時、他方では屈辱や隷属が強いられるのは避けがたく、旅する二人は、いかにも弱々しい民の姿でもあった。身重の妻を連れての移動、およそ百キロメートルの旅は、途中、山越えや川越えのある険しいものであった。その過酷さのゆえもあったのか、「彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。・・・」のである。(1〜7節)
神であられる方が、そのあり方を捨て、ご自分を無にして、仕える者の姿をとられたこと、それが飼葉おけのみどりごのお姿であった。そこまで卑しく、低くなられたことが、羊飼いたちに知らされた。「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。」(ピリピ2:6-7)彼らは、当時、人々から蔑まれ、疎んじられる職業に就く者として、社会生活においては疎外された者たちであった。身なりを整え、神殿の礼拝に向かうことなど、決してできなかったからである。けれども、旧約聖書の教えには心を傾け、救い主が来られるのを待ち望む日々を送っていた、と考えられる。彼らは、神殿で犠牲とされる羊のため、その地で羊飼いとなっていたとも考えられるからである。すべてを知っておられる神は、御使いを彼らに遣わし、喜びの知らせを彼らに告げておられた。約束の救い主、キリストは、「あなたがたのために、お生まれになりました」と。
彼らの喜びは、「きょう」、確かにお生まれになった救い主にお会いし、目で見て、手で触れもし、その泣き声を耳で聞いたことにあったかもしれなかった。しかし、何よりも嬉しかったことは、「見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだった」ことにあった。それは、その知らせを神からのものと信じ、神である主が、私たちに知らせてくださったと喜んだからであった。なぜに自分たちに知らされたのかは分からずとも、神が私たちに知らせてくださったと喜んだので、「神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(20節)彼らは賛美とともに、御使いから「この幼子について告げられたこと」を人々に知らせていた。マリヤとヨセフ以外にも、近くにいた人々に語っていたと想像できる。彼らは、救い主のお生まれを告げ知らせる役割も、しっかり担っていたと考えられるのである。
今年は、この礼拝において洗礼式が行われることが、格別の喜びであり、感謝に溢れるクリスマスを迎えることができた。今一度、一人一人が、「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」との言葉、また、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(マタイ 1:21)との言葉を、自分に語られた大切な言葉として心に刻みたい。私たち一人一人が、罪の赦しを得るためにこそ、主イエスはお生まれになったこと信じ、その喜びの知らせを、私たちも告げ知らせる者とならせていただけるように!
