「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。」(14節)主イエスは、パリサイ人たちに向かって、厳しく語られた。それはすべての人にも当てはまることであった。神は、すべての人の心をご存じなのである。人が心で何を考え、何を一番大切にして生きるのか、イエスは、続けてたとえによって教えようとされた。心で何を考えるのか、そしてどのように生きるのか、人の評価と神の評価は大きく違っている・・・と。
「さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れていかれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。」(22〜23節)死後、二人の立場は全く逆転していたのである。「ラザロ」という名前には、「神が助け」という意味があった。彼は生前、どんなに貧しくても神を仰ぐ心を失うことはなかったのに違いなかった。それで死後、御使いたちによって、「アブラハムのふところ」、すなわち「天国」に入れられたのであった。他方、金持ちの葬式は盛大になされたことに違いない。けれども、彼は死後、「ハデス」(黄泉/陰府)の苦しみの中にいた。二人のいる所が全く逆転していた。
金持ちは、視点を変え、ラザロを父の家に送って、五人の兄弟たちに、「こんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」と願った。彼はこのままでは、兄弟たちも同じ苦しみ遭うのがよく分かった。それで、兄弟たちのためを思って願ったのだろうか。それとも、自分の非をこれ以上思い知らされたくなかったからであろうか。彼は「だれかが死んだ者の中から行ってやったら」と願って、ラザロを・・・と言った。しかし、聖書に聞くことがなければ、彼自身が聖書を知っていながら、それに耳を傾けなかったように、「たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」と突き放される。彼らには「モーセと預言者」があること、聖書が与えられていることは、神の教えがいつも身近に置かれていることであった。その教えに耳を傾けること、それは神に心を向けることに他ならないからである。(27〜31節)
心が神に向くか否か、それは聖書に聞くかどうかによっている。聖書の教えを要約するなら、神を愛し、隣人を愛することに、そして神に仕え、人に仕えることに行き着く。金持ちが、もし少しでも聖書に耳を傾けていたなら、門前に寝ていたラザロに対し、何かしらの心遣いがあったに違いなかった。彼はラザロを見てはいても、決して手を差し伸べなかったという点で、聖書の教えに背を向けていた。彼の兄弟たちとて、ラザロが死人の中から生き返って遣わされても、彼の言うことを聞くとは考えられなかった。兄と同様、この世での成功ばかりを追い求め、聖書に聞こうとはしないからである。聖書に聞こうとする態度、その教えに耳を傾け、神に従おうとする心、その心を神は見ておられるのである。与えられた豊かな富を、目の前にいる貧しいラザロのために使うかどうか、それは心が神に向くかどうかによっていた。私たちはどうか、私たちの心も問われている。
転入会式、また洗礼式の度、その恵みにあずかる当人だけでなく、この場にいるすべての者が同じように、自分を省みる機会となることは、大きな感謝である。主イエス・キリストを救い主と信じる者には、天の御国で、「今ここで彼は慰められ」との大きな慰めが約束されている。それはこの地上にあって、神を恐れて生きることによって、来るべき世で「今ここで彼は慰められ」との言葉を聞くことにつながることである。今、この地上にあっても、既に真の慰めをいただいている幸いを忘れないよう、そして、このクリスマスの季節に、確かな喜びと感謝の日々を歩ませていただけるよう祈りたい!
(※伝道者の書 12:13〜14)
