いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩く羊飼い、そして、なくした一枚の銀貨を見つけるまで念入りに捜す女の人、どちらの人も、見つけたら大喜びすると語られた主イエスは、次に、その喜びがもっと鮮明になる教えを語られた。放蕩息子が登場するたとえである。イエスのもとに取税人や罪人たちが親しげに近寄るのを見て、それを快く思わなかったパリサイ人や律法学者たちに向かって、主は、あなたたちこそよくよく考えて見なさい・・・と迫っておられた。そして聖書を読む私たちも、自らを省みるように、また父なる神の前に自分はどのような存在かを知りなさい、と迫られるのである。
追い詰められ、どん底に落ちて初めて、「我に返ったとき」、彼は父の家を思い出した。そして、「立って、父のところに行って、こう言おう」と、悔い改めを口にしようとした。(17〜19節)自分が今なぜここにいるのか、なぜ、こんなに苦しんでいるのか、それは父の家を離れたから・・・と気づき始めていた。私は罪を犯しました、もうあなたの子と呼ばれる資格はありません・・・、そのように言おうと心が定まった時、彼は立ち上がり、父の家に向かった。その息子の姿を遠くから見つけた父は、「かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」(20〜21節)息子が帰るのを、父は、来る日も来る日も待っていたかのようである。父が走り寄り、抱き寄せして迎えている。そして、息子が懸命に悔い改めの言葉を言うのを遮るように、息子の帰還を僕たちに告げ、歓迎の祝宴を始めさせた。父にとっては息子が帰って来たこと、それが何ものにも優る喜びだったからである。(22〜24節)
彼が心の内を吐き出せたのは、「それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた」からであった。兄息子が言いたいだけ言い表した後、父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』(31〜32節)死んでいたのが生き返ること、いなくなっていたのが見つかること、この喜びは何ものにも代え難く、この喜びを一緒に喜んでくれ、一緒に喜ぶのは当たり前ではないか、と兄息子に迫ったのである。父にとっては、いなくなっていた息子の帰還はこの上もない喜びである。それは死んでいた者が生き返ること、失われていた者が見出されることである。理屈抜きの喜びであると。
確かに、弟息子の悔い改め、「我に返った」事実は大切なことであった。けれども、父はその悔い改めの言葉を、ほとんど聞かなかったかのように、また無視するかのように、弟息子を迎え入れている。「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」と、懸命に言おうとしているのを振り払うように、大切な子として受け入れていた。悔い改めが本物かどうかを確かめることはしなかった。兄は、いくらなんでも、それくらいはして欲しいと思ったのかもしれない。でも父はその兄息子に向かって、「おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」と語って、一緒に喜んでくれと諭していた。父の愛は底なしの愛と言うべきものなのである。
私たちは、自分が失われていた者であり、不思議にも神のもとに立ち返ることを許された幸いな者であることを感謝したい。と同時に、失われた者が回復されることを神と共に大喜びする、その幸いを味わい続ける者とされたい。ゆめゆめ兄息子のような上辺だけの信仰に陥ることなく、愛に富む父なる神がおられることを信じ、この神を喜び、この方に従う歩みを、生涯変わることなく導かれるように祈りたいものである。
