第十七段落の結びは、「私の目から涙が川のように流れます。彼らがあなたのみおしえを守らないからです」(136節)と、「みことば」に背く者たちのため、執りなしの祈りをささげる姿が歌われていた。けれども、そこには祈る者の苦悩があったに違いない。この世では、どんなに祈ったとしても、すぐには事態が好転しない現実があったからである。続く第十八段落は、「ツァデー」で始まる「正義:ツェデク」を全編の主題とし、人の世に「正義」を求めるむなしさを実感しつつ、確かな「義・正義」は神にのみあることを確信している。
この詩篇の記者は、そのような繰り返しを経て、頼みは神の「みことば」のみとの結論に達していた。「私の熱心は私を滅ぼしてしまいました。私の敵があなたのことばを忘れているからです。あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。」(139〜140節)神のことばを聞こうとしない者、敵対する者に何度となく攻撃され、時には、神への熱心のあまり、激しく怒って立ち向かい、彼らを何とかしたいとも願ったのである。彼らにも、神に頼る道を歩んでほしいと願いつつ、憤りにも似た思いが、今も湧くのであった。けれども、大事なことは「あなたのしもべは、それを愛しています」と言うことであった。私が、「それを愛しています」と「みことば」に信頼すること、そのことを「みことば」によって悟る者とされていた。
「つまらない者」と「さげすまれる」ことが続いても、それでも、私は「あなたの戒めを忘れてはいません」と言えるのは、「あなたの義は、永遠の義、あなたのみおしえは、まことです」(142節)との確信によることであった。激しい苦難の中や、時には窮乏することがあっても、また人々の中傷や嘲りによって追い詰められても、じっと耐えているだけではなかった。顔を上げ、心は天を仰いでいたのである。唯一人、正しい方、「義なる方」がおられることを信じて止まなかった。「あなたの義は、永遠の義。」この言い方には、「あなたの義だけが、真の義」との強調がある。神の「義」を「永遠の義」と言うことによって、人が振りかざす「正義」や「義」が、たやすく移り変ること、時に全く消え去ることを告げる。神の「みことば」だけが、決して変わらないと。
「あなたのさとしは、とこしえに義です。私に悟りを与えて、私を生かしてください。」(144節)先に「あなたの義は、永遠の義」と歌ったことを、再び「あなたのさとしは、とこしえの義です」と語って、神の「義」また「正義」だけが永遠に変わらないもの、この「正しさ」、この「正義」に依り頼む者だけが、この地上にあって、揺れ動くことなく、正しく歩ませていただけると、心の底から信じたのである。実際、揺れ動かない「みことば」を持つ者は、この地上、この世にあって、どれだけ確かな歩みを約束されているのか、私たちはその確かさを十分に知り得ていないのかもしれない。それほどの苦難も、まだ経験していないからであろうか・・・。けれども、神ご自身は「永遠の義」をもって、私たちに臨んでいてくださる。この神に頼れるのは何と幸いであろうか。
(※マタイ6:33)
主イエスは言われた。「天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24:35)この滅びることのない「みことば」、この教えを頼りに、「私に悟りを与えて、私を生かしてください」と神を呼ぶこと、そうすることによって、私たちも確かな日々を歩むことができる。主イエスを心から信じて、その教えに聞き従う者として、地上の生涯を確かに歩ませていただこうではないか。
