「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(105節) 第十四段落で、既にこのような告白に到達していたからか、その後の十五段落、十六段落は、心定まった者の訴えや願いが歌われていた。「あなたのしもべの幸いの保証人となってください」(122節)と祈るのは、神を私の「幸いの保証人」と信じているからであった。そして、「それゆえ私は、すべてのことについて、あなたのいましめを正しいとします」(128節)と、神の「みことば」に対する信頼は、いっそう揺るがないものとなっていたのである。
だからこそ「私のたましいはそれを守ります」と、もはや揺るぎない姿勢を告白する。自分のことを省みるに、「みことば」によって、愚かでわきまえのない者の心が「パッ!」と明るく照らされたこと、「光が差し込み」、鈍い心に悟りを与えられたことを、感謝せずにはいられなかった。「みことば」をただ耳で聞くのではなく、心で聞き分けること、それが肝心なことであった。自分に都合のよいことだけを聞くのではなく、喜びの日も悲しみの日も、また順調な日も苦難の日も、その教えに聞き従うこと、それによって今があると知って、この人は、いよいよ神に信頼する思いを熱くしていたのである。
「私に御顔を向け、私をあわれんでください」と祈りつつ、「あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください」(133節)とも祈っていた。自分がこの世を生きるためには、やはり「みことば」なしは、とても危ういことを知っていたからである。ここでの「罪」という言葉は、「悪」「邪悪」「空しいこと」を指し、また偶像をも表すものである。この世のあらゆる邪悪なこと、空しいこと、また、あらゆる偶像礼拝から守られるのは、ただ「みことば」によることと明言しているのである。自分が空しいことから離れていられるのは、自分で気づいてできることではなく、神が私を捉え、「みことば」によって支え、導いてくださるからであると、神の守りと導きを決して忘れることはなかった。
この人は「みことば」の奇しさに触れ、その「みことば」によって心を照らされ、この世の日々のいかなる時にも、「光が差し込」む幸いを得ていた。けれども、それで慢心することなく、いっそう神に頼る謙虚さを身につけたのである。自分を見つめ、いよいよ神を頼ること、神に助けを求めることを忘れなかった。それと共に、なお心を頑なにして神に背く者たちのことを思う時、彼らのために涙する者となっていた。先には彼らに憤慨し、「激しい怒り」に包まれていたのが(53節)、今はその同じ人々のために、「私の目から涙が川のように流れます」(136節)と。神の教えを聞かない人々のために、執りなしの祈りをささげるまでに、心が広くされていた。背く者たちが、もし頑ななままであるなら、彼らの行く末は滅びである。その裁きの厳粛さに、この人の心は震え、涙を流していた。光が差し込んだ心に、確かな実が結んでいたのである。
私たちもそれぞれに「みことば」によって、いっそう心を開かれ、「わきまえのない者に悟りを与えます」との真実な証しが導かれるなら、それこそ、「みことば」の奇しさ、不思議さを証しすることになる。自分を誇ることや高ぶることをやめ、心を低くすることを身につけ、周りの人々に対して、真実な涙を流して祈る者となるなら、必ず、神が助けの手を差し伸べてくださるに違いない。困難の中にあっても、神は私たちと共におられ、必ず支え続けてくださるからである。敵対する者のためにも涙して祈ること、それはキリストに似る者に変えられることである。「みことば」によって、そこまで変えられることを経験させていただけるとは、何と奇しく、幸いなことであろうか。
