「主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています」と、「みことば」の永遠性、普遍性に目を留め、他方、「私は、すべての全きものにも、終わりのあるのを見ました。しかし、あなたの仰せは、すばらしく広いのです」と、この地上の事柄の全てには終わりがあることを悟った段落に続いて、第十三段落の冒頭は、「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています」(97節)という、感嘆の歌となった。ヘブル語アルファベット「メーム」で始まる「マー」、「どんなにか、なんと」との感嘆詞が、この段落を貫くように・・・。
その感謝と喜びは、次のように歌われる。「あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。それはとこしえに、私のものだからです。私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです。」(98〜100節) 一見、自分をほめ、自分を誇っているように感じられる。しかし、単純な比較ではなく、神に信頼して支えられた日々を思い返していた。「敵」の策略に翻弄され、自分の無能さを思い知らされても、神のことばによって奮い立つことができた。師から多くの教えを聞いたものの、自分が神のことばを拠り所とすることが実際の力となった。若さゆえの失敗も数多くあったが、神の戒めを守ることが何よりも大切と学ばされたからである。
私たち人間の堕落した本性は、自分がどれほど邪悪で罪深いか、極力過小に受け止めたいと願うものである。「私はそれほど悪くはない」「あんな失敗はしない・・・」と、自分の罪深さについてはなかなか認めようとはしない。しかし、日々に多くの誘惑に迫られ、内に潜む思いは制御しにくいものであるのを、誰もが認めるのではないだろうか。立ち止まって見つめるなら、私たちは決して清くはない自分を思い知らされる。私たちが犯罪に走ることなく、悪に足を踏み入れることなく今あるのは、神のことばに心を照らされ、戒めによって踏みとどまらせられているからである。神が聖霊を送って、私たちを守り、神の教えに耳を傾けさせて下さることがなかったら、とっくに道を誤っている。「みことば」と神の助けがなかったなら、私たちの人間の歩みは、大いに危ういものなのである。(※詩篇 94:17)
「私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります。それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。」(104節) この地上の日々の歩みを思うと、迷うことばかり・・・と多くの人が言うに違いない。何が正しく、何が偽りであるか、何が善で、何が悪か、見分けるのはとても難しい。知識が増え、経験を積めば判断がたやすくなるのだろうか。そうではなく、「私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります」と、この人は言い得た。知識や経験ではなく、神の戒め、「みことば」が確かな基準なので、迷うことなく「偽りの道をことごとく憎みます」と、言い切ったのである。自分勝手に、「私には、わきまえがあります」と言い張るのではない。神のことばがあるので、それで私は揺るぎませんと落ち着いていた。
けれども、思いを新たに、自分と自分の周りの人々のために、また後の世代の人々のためにと考えるなら、これほど確かな「みことば」を大切にし、これを分かち合うためにこそ、教会が用いられることを願わずにはおられない。「みことば」を心に蓄え、折に触れて口ずさむまでに、これに従う歩みが身につくよう祈ろうではないか。「教会学校月間」にあたって、教会に連なる子どもたちが、揺るぎない拠り所を得ることができるように、その拠り所である「みことば」を自分のものとし、豊かな人生を歩めるように、そんな祈りをも導かれたいものである。
