第十一段落を、「あなたの恵みによって、私を生かしてください。私はあなたの御口のさとしを守ります」と、祈りによって結んだこの詩篇の記者は、神を仰ぎ、「みことば」の確かさに目を留めていた。「ことば」「さとし」「仰せ」・・・等々、いろいろ言い換えて歌いつつ、神ご自身と神のことばの揺るぎなさこそ、私の拠り所であると思い知っていた。この地上では苦しみや痛みがあり、耐え難い不条理があったとしても、「主よ。あなたのことばは、天において定まっています」と、心から歌い継ぐことになった。(89節)
「この地上」(87節)のことは、およそ不確かで、揺れ動くことばかり・・・と嘆く人は多い。神はいない、神は死んだと、無神論が多くの人の心を占めている。この世界は、果たして無目的のものなのか・・・? 人はそれぞれ自分で目的を見つけ、また目標を立てて進む他に道はないのだろうか。しかし、造り主を知る者は、天に定まる神の「ことば」を信じて、「あなたが地を据えたので、地は堅く立っています」と言い切る。さらに「それらはきょうも、あなたの定めにしたがって堅く立っています。すべては、あなたのしもべだからです」と明快である。天と地は神によって造られ、堅く揺るがず、神のみ手の支配は、全ての被造物に及んでいる。心を騒がせることは何一つなし・・・と。
こうして、この世界の創造者、造り主なる神がおられると信じる者は、「もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったなら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです」と歌う。(92〜93節)神がおられ、神の教えが私を励まして下さったので、私は今生きています、神の愛と励ましは私にはなくてならないものでした・・・と。「私を生かして下さる神」がおられると信じる人の歩みは、決して揺るがないものとなる。(※実際に、聖書によって力を得ましたとの証言は尽きない。また、もし無人島に、ただ一冊を持って行くことが許されるとすると、それは「聖書」と言う人が多い・・・と。辛い時、苦悩する時、そんな時、詩篇が大いに慰めとなる経験を、私自身思い出すことができる。)
そして、主イエスが語っておられる。天の父がご自身の民に「よくしてくださらないわけがありましょうか」と。(マタイ6:30) だからこそ「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」とも。(マタイの福音書 6:33)ペテロも、「あなたがたの思い煩いを、神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」と語って、聖徒たちを励ましている。(ペテロ第一5:7) この詩篇の記者は、神の手の中にある平安、安心を悟っていた。そしてこの段落を「私は、すべての全きものにも、終わりのあることを見ました。しかし、あなたの仰せは、すばらしく広いのです」結ぶ。神に頼る者の守りは万全である。この地上の全てのことには終わりがあるとしても、神の「ことば」は無限であり、永遠である。その広がりの中にある幸いは何ものにもまさるからである。(96節)
私たちはどのように神を信じ、また自分の一生を捉えているだろうか。私を造られた神がおられる、そして私を生かして下さる神がおられると、心から信じているだろうか。神は「あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるから」と約束して下さっている。この神の教えを喜びとし、その仰せの広さに心を向かわせる者としていただきたい。その時、私たちの心も広くされ、苦難に遭っても堅くされ、この地上にあって強くされるに違いない。(※32節)
