「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたの御口のおしえは、私にとって 幾千の金銀にまさるものです。」(71〜72節)前の段落をこのように締めくくった詩篇の記者は、確かに多くの苦しみを経験していた。神のご計画の下で、それらの苦難があり、多くの大切なことを学ばせられていた。辛くても、一層「みことば」に依り頼むよう気づかされ、神が生かして下さっていることに心を開くよう導かれていた。その思いが第十の段落で歌われる。苦難の中で、人は動揺するものである。けれども、彼は心を静め、神の前での自分を見つめようとした。
そして、自らの存在の始まりは自分にはなく、神の手によること、しかも丁寧に内面に及んで形造られたことを認める時、「どうか私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください」と、心を低くする祈りが導かれる。「祈り」は万人に共通するもの。けれども、本当に神に祈っている祈りなのか、それとも単なる願望を述べているだけの祈りなのか、その隔たりは大きい。人を造られた神は、ご自身の知恵と力を注ぎ、丁寧に人を形造られたのであって、この神に「悟りを与えてください」と祈るのは、真に的確である。いよいよ熱心に祈ることによって、神の助けを待ち望むことができる。この人は、苦難の中でも決して孤独ではなく、悩みの中に神が共におられることを忘れず、上よりの慰めを待ち望み続けることができた。(74〜76節)
偽りをもって中傷する者がいること、この悩みと苦しみは前の段落で触れられていた。(69〜71節)その痛みは過去のこととなったのではなく、今もその只中にあった。けれども、その苦難を主からの試練として受け止める心が養われていたのである。「主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。」(75節)彼は、悩みや苦しみが深ければ深いほど、神の助けが必要と気づいていた。心を神に向け、神の知恵と力を待ち望むことがなければ、この世の惑わしに目がくらみ、容易く悪に走る自分を知っていた。私たちはどうか。どれだけ自分の弱さや愚かさをわきまえているだろうか。神の助けが、どれだけ必要であるかを知っているだろうか。強がってはいないだろうか。
この段落は、激しい悩みや苦しみにもがきつつも、不思議に平静を保たれている、そんな心が歌われている。冒頭の「あなたの御手が私を造り、私を形造りました」との告白が、この段落を貫いているからである。詩篇139篇では、同じような心境が一層詳しく描かれている。「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。・・・私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」(139:13〜16)私を造られた神がおられると信じる人は、この神に身を任せ、この神に信頼して心に平安を得る、人生の最高の助けを得ている人なのである。これは絶対的とさえ言える助けである。(※伝道者の書 12:1)
今年度の主題聖句は、主イエスが約束された言葉である。不信仰と弱さや愚かさのため、いつも心配ばかりする弟子たちに向かって、この地上の生活における必要の一切は、天の父がもう知っておられる。だから「心配するのはやめなさい」と言われた。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)私を造られた神がおられることを明確に信じて、この神に信頼する歩みが導かれるよう祈りたい。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」造り主なる神は、このように呼び掛けて下さっているのだから。(詩篇 50:15)
