十字架の死から三日目によみがえられた主イエスは、エマオの村に向かう二人の弟子の前に現れ、信じられない者を信じる者に変えて下さった。喜んでエルサレムに戻ると、十一使徒とその仲間たちが集まって、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていたので、二人もまた自分たちの経験を話し、「イエスだとわかった次第」を語り、イエスの復活を信じる喜びを分かち合っていた。その場にいた、主イエスにまだお会いしていない弟子たちは、何とも言えない複雑な思いをしていたに違いなかった。
その場には何人ぐらいの弟子たちがいたのだろうか。15人位か、それ以上の弟子たちがいたのか。少なくとも三人はもう既に主にお会いし、復活を信じる者になっていた。女の人も混じっていたなら、彼女たちも主イエスの復活を信じる者となっていたが、まだ信じられず悶々としていた者たちの方が多かったと思われる。イエスが真ん中に立たれた時、弟子たちが「驚き恐れて、霊を見ているのだと思った」のは、それでも信じられないで驚いている、戸惑いの反応であった。現実のこととは到底信じられなかったのである。それで主は、ご自分の手と足を見せ、「まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい」と、弟子たちに語られた。主イエスは、弟子たちの恐れや戸惑いを思いやるようにして、ご自分の手と足を示しておられたのである。(39節)
弟子たちが復活を信じる者となるために、主ご自身は何度でも、その姿を現し、彼らを復活の証人とするために、手を差し伸べておられた。それに加えて、イエスの復活を確かに信じるためには、聖書から、キリストの十字架の死と死からのよみがえりについて、はっきりと知ることが不可欠なことであった。そのため、主は、改めて聖書がキリストについて示すことは、必ず全部成就することを彼らに説き、聖書を悟らせるために彼らの心を開かれた。(44〜48節)聖書全体は、キリストの十字架の死と死からのよみがえりに、その焦点が当てられているのである。十字架と復活を根拠として、「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことになるのである。
(使徒の働き 1:3〜11)
復活された主イエスを、はっきりと信じる信仰に導かれた人、「まさしくわたしです」と語られた主にお会いした人が、主イエス・キリストの復活の証人となるのである。けれども、主にお会いしたからと言って、そのまま出て行くようにはお命じにならなかった。「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(49節)聖霊が注がれ、上よりの力をいただくまで、待ちなさい、と言われた。復活の証人は、神ご自身が送り出して下さるのであって、証言を聞いて新たに信じる人もまた、聖霊の働きによって信じる者に変えられるのである。主は、聖書の証言を通して「まさしくわたしです」と語りかけ、聖霊に導かれることによって「信じる者になりなさい」と、私たちにも手を差し伸べて下さっているのである。
見ずに信じる幸いを得た者として、私たちも主イエスを救い主、キリストと信じて生きるなら、私たちの日々の歩みが復活の証人としての歩みとなる。この地にキリストの教会があること、その教会に私たちが連なっていることが何よりの喜びである。確かに復活の証人となっている事実を心に刻み、そして、なおもその証人が増し加えられることを祈り求めて歩みたい!
