イエスが復活された日の朝、数人の女たちが墓に着いた時、空っぽになった墓を前に「途方にくれる」しかなかった。御使いが「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。・・・」と告げても、それでイエスの復活を信じられたわけではなかった。彼女たちは、御使いに促され、「イエスのみことばを思い出した」ことによって、復活を信じる者となっていった。そして、そのことを使徒たちに告げたのであった。
二人は、エルサレムからエマオという村へと向かっていた。特別な用があったのか、それともエマオに自分たちの家があったのか、安息日が明けたので道を急いでいた。受難週の第一日からずっと、エルサレムに居たとすると、その間の出来事は目まぐるしく、イエスの十字架の衝撃に追い打ちをかけるように、墓が空になってしまったこと、しかもイエスはよみがえられたと知らされ、心は騒ぐばかりであった。二人は散々、あれこれ思い出しながら話し合い、論じ合っていた。その二人に主イエスが近づき、「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか」と尋ねられた。(16〜17節)イエスだとは気づかない二人は、ここ数日のエルサレムでの出来事を知らない人がいることに驚きながら、得々と説明し初めた。(18〜21節)
約束のメシヤが、受難を経て「彼の栄光に入る」ことを理解するなら、よみがえりのこと、十字架の死からの復活のことに思い至るはずであった。そのことがはっきり分かるように、主は、「聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(27節)聖書全体は、主イエスの十字架の死と、死からのよみがえりのことに、その焦点が当てられているのである。エマオに近づいた二人は、このままではイエスと別れ難くなっていた。先へ行きそうな様子の主を、強いて招き入れ食卓を共にした。食卓に着かれたイエスが、パンを取り、祝福し、裂いて彼らに渡されると、その様子を見ていた二人の目が開かれ、ようやく「イエスだとわかった。」それは二人には、驚きの瞬間であった。しかし、胸の高鳴る喜びの時であった。(28〜32節)
戻ったエルサレムでは、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と、主イエスの復活の事実が明らかになりつつあり、二人も喜々として道々のこと、パンを裂かれた時のこと語り、使徒たちをはじめ、弟子たちの間に復活を信じる信仰が、着実に根付き初めていたのである。主は、弱さと愚かさに打ちのめされていたペテロに対しては、ことさらのように配慮しておられた。他の弟子たちの誰よりも先に、彼に現れ、彼を励まして立ち直らせようとされたのである。このペテロに加えて、さらに二人の弟子たちを復活の証人にしようと、エマオへの道々、彼らに聖書から説き明かし、食卓を共にする交わりを通して、信じる者に変えて下さったのである。一人また一人と、弟子たちを整え、造り変えるように彼らの目を開いて、「イエスだとわかった」人を増し加えておられた。復活を信じる人は、このようにして今に至るまで、世界中で起こされ、増し加えられているのである。
今日の私たちには、直接主イエスが現れて下さるという形ではないが、聖書全体の告げている救いへの招きが、イエス・キリストの十字架と復活の出来事に基づいていることを知る時、イエスご自身が私たちを「わたしのところに来なさい」と、招いて下さっていることを知ることができる。私たちの心も、確かに「うちに燃える」という経験をさせられる。私に近づき、私に声をかけ、私と共に歩んで下さる主イエスが、おられると知ったので、私たちも「イエスだとわかった」のである。この信仰は、理屈だけではとても説明のしようがないものかもしれない。けれども、聖書を通して確かなものとされているのである。一層聖書に親しんで、主イエスの復活を信じる信仰の歩みを導かれたい!
