この詩篇119篇の記者は、正しく「詩人」と言うに相応しく、多くの経験を経て、人生の酸いも辛いもよく知る、そんな人物であったことがうかがわれる。彼は果たして何歳ぐらいであったのだろうか。第九の段落では、自分の歩んできた日々を思い返し、苦しかったことを思い出すとともに、その苦しみの中で、一層、「神のことば」に心が開かれたことを心から感謝している。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(71節)このように人生を振り返るのは、若くしてはなかなか難しいこと・・・と、そんな思いにもさせられる。
この人は若い時から、「よい分別と知識」があったわけではなかった。「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」(67節)人は分別がつくようになるのに、かなりの年数がかかる生き物である。けれども、その年齢に達したからと言って、分別がつくものでもない。本当の意味で「成人」になるのはいつなのか、答えを出すのは難しい。罪を持って生まれる人間が、神に服従することを学ぶのは難しく、神に背いて高ぶることを、驚く程容易に身につけるものである。何かの壁にぶつかり、挫折を経験することがなければ、決して従順を学ぶことはない。それ程に人の心は頑なで、砕かれるのを嫌うもの・・・。しかし、苦悩して、この人は神への従順を学び、神の恵みに心が開かれたのである。
それにしても、偽りをもって中傷する人々の存在は心痛むことであった。彼らが心を入れ変えてくれたら・・・と何度願ったことであろう。「彼らの心は脂肪のように鈍感です。しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます。」(70節)肝心なことは、彼らの心が変わることではなく、自分の心がどこを向いているかであった。私が「神のことば」を喜んでいるか、そのことこそが苦難の日に大きな力となるのであった。「苦しみに会ったこと」によって、確かに知り得たことが、その人の宝となるのである。苦しみに会って霊の目が開かれると、神の教えが私を生かすこと、「神のことば」が私の力と、具体的に学ぶことができるのである。「神のことば」はただ知っているだけでなく、生活を通して、具体的に体験して、いよいよ身近なものとなるのである。(71節)神が私にして下さった「良いこと」を、どれだけ心に刻んで歩むのか、それが私たちの人生を左右すると言える。(詩篇103:1〜5)
ここまで言い切る心境はどのようなものなのか、よく考えるよう迫られる。もし私たちが同じことを言うとすれば、どれだけ本気なのかと問いただされるのではないだろうか。本気なのか? あるいは本心からそう思っているのか? もしや建前でそう言っているだけではないのか・・・と、心の奥底が問われる。私たちは、一体何に幸せを見出しているのか、何をもって幸い、幸福としているのか、大いに問われるのである。やがて消えて行くもの、この世の一時的なこと、必ず失われるものに、随分と心を奪われている事実を、素直に認めることから始めなければならない。そのためにすべきこと、それは何か。それはやはり、神の恵みを数えることであろう。どれほど多くの恵みをいただいていることかを知ることである。「主よ。あなたは、みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました。」(65節)
今日の私たちにとっては、神の御子イエス・キリストが救い主として、私たちを招いて下さっていることが、何よりの感謝である。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と語られた方が、十字架で死なれ、その死は「身代わりの死」であると告げておられた。そして、神の御子を信じる者は「永遠のいのち」を持つと約束された。その約束の「みことば」の一つ一つは、正しく「幾千の金銀にまさるもの」である。日々に注がれる恵みを数え、また約束の「みことば」を覚えて、心から、私は「幾千の金銀にまさる」宝を持っていますと告白できるよう祈りたい。(ルカ19:10、マタイ20:28、ヨハネ10:11、6:54、11:25、14:6、20:27等々)
