ヘブル語アルファベットの各文字を先頭に詠み込む仕方で、その韻を踏むように歌い進むこの詩篇は、全部で22の段落で成り立っている。その三分の一が過ぎ、第八の段落へと進む。「神のみことば」、「これこそ悩みのときの私の慰め」、「あなたのおきては、私の旅の家では、私の歌となりました」等の告白に続けて、「主は私の受ける分です。私は、あなたのことばを守ると申しました」と歌う。この段落の冒頭は、生きて働かれる神、主がおられること、それが私の幸いです、全てですとの断言である。(57節)主がおられるなら、他には何も望まない、私は「あなたのことばを守る」のみ・・・とばかり。
彼は「自分の道を顧みる」ことを怠らなかった。「主は私の受ける分です」と言ったからこそ、自分の生き方を、物の考え方や人前での振る舞いの全てを顧みることの大切さに気づいたのである。「あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。」(59節)神の教えに向かないなら、容易に道を逸れるのが人間である。だから、いつも心を神に向かわせ、その「さとしのほう」へ、自分の足を向けることが必要であった。それほどに自分は脆いもの、弱いものとの認識があったのである。私たちは、自分をどのように認識しているか、そのことが問われる。自らを顧み、神の教えとさとしに自分の足を向けること、そのことを、いつも神に請い求めているだろうか。「私をあわれんでください」と。
「みことば」が教え示す道は、ほとんどの場合に「単純」で「明解」である。自分の罪を悔い改め、神に立ち返るのは、迷いようがないくらいに単純なことである。心の中であれこれと考え過ぎて、次に進めなくなることが多い。のろのろと重い心を引きずっていると、やがて神を忘れる日常に引き戻される。罪に誘う悪の力は、人が想像する以上に強力である。それ故に神に向かうには、心で思った時こそ、一歩進むべき時、「急いで、ためらわずに」がカギである。この記者のためらいのなさは、「真夜中に、私は起きて、あなたの正しいさばきについて感謝します」との告白に表れている。(62節)先に「私は、夜には、あなたの御名を思い出し」と言ったように、夜、一人神に向かって祈り、感謝し賛美をささげる時、恵みを数えて感謝に溢れるのであった。明日に延ばすことなく、神の御業への感謝は、真夜中であっても、目を覚まし、起きて感謝をささげること、それほどに神と親しく歩むことを私たちも許されている。
神を仰ぎ見る時、また同時に周りを見渡し、神の民のつながり、交わりの広がりを信じることが導かれる。その交わりを喜ぶ者、その交わりを経験して力をいただく者は、いよいよ霊の目が開かれ、「主よ。地はあなたの恵みに満ちています。あなたのおきてを私に教えてください」と祈る者となる。(64節)この全地にあまねく、神の恵みが満ちあふれていると知る者は誰であろうか。神の恵みの豊かさ、それは人知をはるかに超えている。私たち人間は、そのほんの一部を知るのみである。満ち満ちている恵みに触れ、天地を造られた神をほめ、その神の「おきて」を、いつも心に留めさせてくださいと祈ること、そのようにして生きることを導かれる人こそ、本当に幸いな人である。
