「主よ。あなたのおきての道を私に教えてください。そうすれば、私はそれを終わりまで守ります。私に悟りを与えてください・・・」との祈りで始まった第五の段落は、「神のみことば」を心から求める思い、また「みことば」によって「私を生かしてください」との切実な祈りに貫かれていた。「私はその道を喜んでいますから」と言い切り、「私は、あなたの戒めを慕っています。・・・」と、生ける真の神に従う道こそ私の幸い!と告白していた。その真実な思いは、さらに次の段落へと歌い継がれている。
彼は、自らの内面の弱さや愚かさを知る者として「みことば」を求め、外からのそしりや惑わしにも揺り動かされる自分を知っていた。だからこそ神の助けを呼び求めた。何としても神の助けと導きが、私には必要であると心から悟っていた。「救い」を与えて下さるのは神ご自身であり、その神が数々の「恵み」を注いで下さるので、神の民はこの地上の日々を楽しみ、感謝をもって生きることができるのである。彼は、ただ苦しみの中で救って下さい、恵みを与えて下さいと願っていたのではなく、神がどれほど多くの恵みを注いで下さっているのか、それに私に気づかせて下さい、また、確かな救いを一層鮮やかに見せて下さいと願っていた。そのような思い、また祈りを私たちもするようにと教えられる。この世にある日々に、悩みや苦しみはつきもので、それに耐えるのに、神を仰ぎ、神のことばに頼る以外に助けはないからである。
たとえ不完全な者であっても、「神のことばに」よって立つなら、この世の王たちの前であっても恐れることはない。神が共におられるから。主イエスは弟子たちに言われた。「何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。・・・」聖霊が弟子たちの内にあって話されるからと。(マタイ10:19〜20)完全なる神がおられることの確かさ、その力は計り知れない。人間の不完全さは、神の完全さによって覆われ、克服される。弱さの中にあっても、「私はまた、あなたのさとしを王たちの前で述べ、しかも私は恥を見ることはないでしょう」と言い切ることができる。(46節)神を信頼して人を恐れず、御言葉があるからこそ、自由に「広やか」に歩むことができるとは、何と幸いなことであろう。
主イエスは弟子たちに教えておられた。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」そして、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。・・・わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。」(ヨハネ13:34、14:23〜24)神を愛するとは、「神のことば」を守ること、その教えに聞き従うこと。知っているにとどまらず、よく読んでいるとか、よく研究しているというのでもなく、神を愛するからこそ、その教えを喜び、その教えの通りに生きていこうとすること、その思いや態度がこの上もなく尊いものなのである。(※ヨハネ第一4:4〜12)
<結び> 主イエスは、大切な第一の戒めは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力をつくして、あなたの神である主を愛せよ」であると言われた。そして第二は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と。(マタイ22:37〜40)神を愛し、隣人を愛すること、これを神は求めておられる。神の戒めはここに行き着くのである。そして、神を愛するなら、神の戒めを愛し、その戒めを行うこと、それが愛の証しとなる。詩篇の記者は、「私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。私は私の愛するあなたの仰せに手を差し伸べ、あなたのおきてに思いを潜めましょう」と告白した。そこまで神を愛し、その教えを愛したのである。
「神のことば」を「私の愛するもの」と告白する信仰、そこに私たちも到達させていただきたい。聖書が私には必要であると、当然のように思っているに違いない。しかし、この聖書なしに生きていけるとは思わないまでも、果たして「私の愛するもの」というほどに大切にしているかと問われると、ぼんやりしている自分に気づかされる。神を愛する愛さえも、ぬるま湯につかっているようではないかと。今一度、自らを省みて、救い主イエス・キリストを遣わして下さった神を愛する愛に生きること、生かしていただくことをはっきりと願い求めようではないか。また「主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように」と心から祈って、確かな救いと、豊かな恵みに満たされて生きることを導かれたい!!
