詩篇の記者は、自らの生涯を思い返しつつ、「私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください」と歌っていた。それはこの地上の日々を生きる限り、変わることのない彼の祈りであった。「神のみことば」があるなら、「たとい君主たちが座して、私に敵対して語り合っても」、決して恐れることなく、ひるむこともなく、「まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です」と、心から告白することができたからである。
人は苦しみに遭って、何を思い、どのように考えるものなのか。神を信じない多くの人が、苦しみに遭って、神なんているものか・・・と神を呪う。神を信じる人であっても、予想もしなかった苦難に打ちのめされると、神を捨てるとさえ叫ぶことがある。正しく生きようとして嘲られ、真実であろうとして、この世で不利益を味わうことを繰り返すと、最早立ち行けないと自信を失うのである。残念ながら、多くの人が若い日に神を信じ、神の教えに聞き従って歩み始めていながら、やがて神を捨て、自分の力だけに頼る!と去って行った事実が、旧約聖書の時代にもあったのに違いない。(※日本の宣教の歴史において、何度かそのようなことがあったと言われている。)けれども、彼は神を呼んだ。「あなたのみことばのとおりに 私を生かしてください」と。
それ故に、嘆きや苦しみの中でも、道を見失うことがなかった。「私は私の道を申し上げました。すると、あなたは、私に答えてくださいました。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私が、あなたの奇しいわざに 思いを潜めることができるようにしてください。」(26〜27節)苦しみに遭う時、私たちは、自分ではなく相手の人に気づいてもらいたい、変ってもらいたいと願うことが多い。聖書の教えに聞き従うべきは「私」であるのに、「あの人」が知ってくれたら、分かってくれたら・・・と祈りさえする。しかし、「私のたましいは悲しみのために涙を流しています。みことばのとおりに私を堅くささえてください」と、この詩篇はただただ自分を見つめ、私には御言葉が必要ですと祈るのである。(28節)
私たちは、信仰の歩みを感情的なことに重きをおいて捉える傾向がある。喜びや感謝、また祈りも感情に影響され、より確かに神に向かうには、何かしら高揚する心が大切と思いやすい。けれども、この段落では、悲しみに沈む時、涙に暮れる時、そのような時こそ、意志をもって「私は真実の道を選び取り」と言い、「私は、あなたのさとしを堅く守ります」とも言い切り、そして「私はあなたの仰せの道を走ります」と決意を述べている。そのように言えるのは、「あなたが、私の心を広くしてくださるからです」と理由も述べ、目の前のことにばかり汲々としていた心が、広く神の御業の溢れた世界を見せられ、飛び立たせられる思いへと導かれていると告白する。(32節)心沈む時、また涙の時こそ、約束の言葉を思い返し、神の御業に目を留め、神が私を支えて下さることを願うこと、自らの意志をもって祈る明確な信仰が力となるのである。
<結び> 私たちの信仰は、果たしてどのようであろうか。「私のたましいは、ちりに打ち伏しています」、また「私のたましいは悲しみのために涙を流しています」という悲嘆の中から、「私はあなたの仰せの道を走ります」と言うまでに、この記者の心は迷いから解き放たれている。周りの環境を責めることなく、周りの人々のことを嘆くこともせず、彼はひたすら「あなたのみことばのとおりに 私を生かしてください」「みことばのとおりに私を堅くささえてください」「あなたのみおしえのとおりに、私をあわれんでください」と祈った。そして「私は、あなたのさとしを堅く守ります」と祈り、「私はあなたの仰せの道を走ります」と、心を決めるまでに導かれていた。私たちの日々の歩みのためにも、同じ祈りが大きな力となる。神が共におられるとの約束は、私たちをも支えてくれる約束である。神が共におられると信じる者は、今この時代にあっても、揺るがない信仰によって支えられる。この幸いを信じて歩ませていただきたい。「あなたの仰せの道を走ります」と言えるなら、もっと幸いである!!
