礼拝説教要旨 2004年9月19日
神の守り、神の救い
列王記第二 19章8~37節

危機の時、ヒゼキヤは主の宮に入って祈った。

神はその祈りを聞いて答えられた。

大軍を率いていたラブ・シャケは、アッシリヤの王と落ち合うためにエルサレムから退いたのである。

しかしヒゼキヤを悩ました危機は、なお続いていた。

一、なお続く危機の中で

アッシリヤの王は、ユダを攻め落とすことを諦めたわけではなかった。

次の機会をねらっていたのである。

クシュ、すなわちエチオピヤの王ティルハカが動いた時、ユダを征してこれに備えようと、再びヒゼキヤに降伏を迫った。

ヒゼキヤにしてみると、事態の好転はなく、以前に増して危機が高まった。

アッシリヤに反抗して生き残った王はいるのか答えてみよと、激しく迫られたからである。

祈りによって一時期助けが与えられたのは事実であった。

けれども、少し時間が経って、実際には状況はほとんど変化がなかったというのが、この時の真相である。

そんな時、人はどのように感じるのだろうか。

神への不信が頭をもたげそうになる、そんな状況であった。

けれどもヒゼキヤは動じることなく、この脅しに対処した。

彼は先の時と同じように、祈るために主の宮に上って行った。

祈りに答えてくださる神がおられると信じること、そして祈りが答えられた経験があることによって、彼は迷うことなく主に祈るよう導かれていたのである。

二、生ける神への祈り

ヒゼキヤにとって、神は今ここに臨在しておられる方、天と地を造られた方であった。

目には見えずとも、この方だけが地のすべての王国を支配される神と、彼は確信していた。

ケルビムとは、契約の箱の両端に互いに向かい合うように置かれた純金の像である。

翼を広げたそのさまが、見えない神のみ座のように見なされた。

彼は生きておられる唯一の神に祈りをささげたのである。

「主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください」と祈り始めた。

アッシリヤの王のことばを聞いてください、また彼が成した業を見てくださいと祈るのである。

しかしヒゼキヤの確信は、主はもうすべてを見聞きしておられるゆえ、何を言うべきかというところにあった。

生きておられる真の神、主と、人の手による偶像の神々との差は歴然としていた。

アッシリヤが滅ぼした諸国の神々はもちろん、アッシリヤも主の前に立ち向かうことなどあり得ないことを、ヒゼキヤは信じていた。

主こそ神、大いなる方、何者もこれに打ち勝つことはできないと信じていたのである。

三、万軍の主の熱心

祈りを聞かれた主は、イザヤを通して、「あなたがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた」と答えられた。

主はアッシリヤの高ぶりを確かに見ておられた。

主ご自身の手の中にあることを忘れたアッシリヤを、「もと来た道に引き戻そう」と主は言われた。

主はこの世界で起こり来るすべてを支配しておられた。

すべての人は、この神の前に身を慎むこと、心を低くすることが求められているのである。

ヒゼキヤとユダの民に対しては、危機からの解放が約束された。

地の荒廃、生活の困窮はたちまちのうちに解消しないとしても、次第に地の実りが回復し、生活の安定が必ずもたらされる。

しかも、「万軍の主の熱心がこれをする」と宣言されている。

人の熱心は当てにならず、頼りにならないのに対して、万軍の主の熱心こそ、民の拠り所として確かなものなのである。

主の約束のことばは、アッシリヤの王について明確であった。

「彼はこの町に侵入しない。塁を築いてこれを攻めることもない。彼はもと来た道から引き返し、この町には入らない。」

そして、「わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために」と、揺らぐことのない神の守りと救いが約束された。

神は、何があったとしてもご自分の民を救ってくださるのである。

神ご自身の真実さのゆえにである。

結び

ヒゼキヤは果たして主のことばを信じることができたのだろうか。

どのように受けとめたのだろうか。

私たち自身の思いや信仰に置き換えてみるのは興味深い。

「彼はこの町に侵入しない。」「彼はもと来た道から引き返し、この町には入らない。」

これらの約束は、とても信じ難いものである。

しかし、主は「わたしはこの町を守って、これを救おう」と言われたのである。

主はその夜、主の使いを送ってアッシリヤの陣営を打たれた。

それは疫病による急な出来事と考えられているが、神の不思議な介入があったのである。

アッシリヤは大打撃を受けて、退散するしかなかった。

そしてセナケリブには悲劇が待ち受けていたのである。

主のみ業の不思議としか言いようがない出来事が起こったのである。

主はヒゼキヤや民が信じようと信じまいと、ご自身のみ業を成し遂げられたのである。

この点こそ、私たちが聖書を通して学ぶべき真理である。

私たちは主がどのように神の民を守ってくださるのか、また救ってくださるのか、その全容を知らされていることになる。

その上で私たちもまた神を信じ、神の救いを待ち望む者となるように招かれているのである。

聖書の中の出来事だけでなく、身近な人々の証しをも通して、私たちはその守りと救いを知らされている。

神がご自分の民を守り、これを救ってくださるのは、「わたしのために、わたしのしもべダビデのために」と言われているゆえである。

このゆえに、神の約束は全く揺るがないのである。

しかもこの約束の成就は、イエス・キリストの十字架のみ業が成し遂げられたことに及ぶ。

主イエスは、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と語られた。

また、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことがありません」と語ってくださっている。

私たちは神の守りと救いの確かさを心に留め、神を信じ、また主イエスを救い主と信じる信仰に、一層進ませていただきたいものである。