礼拝説教要旨(2003.08.10)

平和の道を歩む

(コロサイ3:12〜17 (イザヤ2:1〜5))

 毎年8月15日が巡って来るとき、「平和」を心に留めて礼拝をささげるように導かれている。(※大会の「ヤスクニと平和委員会」の要請でもある・・・・)キリストにより神との平和を与えられた者として、この地上の平和をどのように追い求めるかという視点を学び続けていることになる。暗唱聖句の「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」という教えを自己吟味しつつつ、主のみ心を探りたい。

1、「キリストの平和」というとき、キリストが与えて下さった平和が、今、私の心の内に本当にあるだろうか、その平和を実際に生きているだろうか、といろいろ問い返し、またいろいろ思い巡らすことになる。罪を赦された者として、神との平和が与えられていることを再確認して喜ぶ反面、世の中にはその平和とはかけ離れた争いが満ちており、人の心は荒れ、国と国は対立し、紛争は至るところで起こっていることに、私たちは心穏やかではいられない。そして今私たちが住んでいる日本の社会は、新たな戦争の備えを急ぐがごとく、政府は新しい法律を次々と成立させてしまった。

 ※8月6日、広島の平和記念式典で秋葉知事は「もはや戦後ではなく、新た  な戦前が始まっている・・・・」という趣旨を述べていた。

2、自己吟味するにあたり、改めて日本長老教会の「戦争に関する公式見解」を確認したい。

 この公式見解は1997年11月の第6回大会にて採択されたもので、ウェストミンスター信仰告白第23章と日本国憲法の平和主義の関係を論じている。公式見解を採択するきっかけとなったのは1991年の湾岸戦争であった。23章には「・・・・合法的に戦争を行うこともありうる。」と告白しており、日本の憲法は「戦争放棄」を決めていて、信徒は自分の信仰の態度をどのように決めたらよいのか、と一つの教会から問が発せられたのである。

 公式見解では、「ウ信仰告白」の意味するところは、やむをえない場合には「合法的戦争」は有り得るとしても、それは消極的に許容されているのであって、キリスト者が為政者として召されているなら、法律に従って、特に敬虔と正義と平和の維持を旨をすべきという点にある、とまとめている。そしてこの視点の線上に日本の憲法の平和主義の決断があると理解するのである。
 ・合法的戦争を平和の手段として選び取ることはあったとしても、日本国憲  法は、単なる理想主義からではなく、戦争の悲惨を学んだ国民の反省と決  意から平和主義を選択した。そこに神の摂理と知恵を見る・・・・。
 ・日本国憲法は押し付けられたものと、これを評価しない考え方があるが、  私たちは罪の悔い改めと平和への新しい決意の表明として、主体的に受け  止め続けることが、日本長老教会の信仰告白にかなうあり方である。為政  者の立場にあろうとなかろうと、全ての信徒にとって、戦争放棄の決断を  このように捉える。

 ※当初の「委員会見解」から「公式見解」へと移る過程で、より分かりやすくまとめられ、整えられていることを気づかせられる。

3、ところで、「ウ信仰告白」は1648年に英国議会にて承認されたものである。教会史では16世紀の宗教改革後のことであるが、初代教会、特に1〜2世紀の教会の信仰理解とはやはりかなり違っていたのではないか、という視点は否定できない。具体的な戦争や国家との関わりについて等々。

 教会史の研究において、ローマ帝国におけるキリスト教公認の前と後ではキリスト教そのものが変質したと指摘されている。最近の戦争を論じる記事によく見受けられる。
 ・クリスチャン新聞、2003年5月25日号:提言(東條隆迫氏)
 ・いのちのことば8月号('03):「クリスチャンは戦争をしてもよいのか」最終回   (藤原淳賀氏)
   ◆大多数のクリスチャンは300年くらいまでは軍隊に入らなかったようで    ある。・・・・戦いの役に立たなかったからであろう・・・・。
   ◆ベイントン(教会史家):170年まではクリスチャンが軍隊にいたという記録    がないという。
   ◆4世紀以降クリスチャンの軍隊関係者は増え、教会が国教として国家    の一部に取り込まれるにつれ、軍隊を支えることは国教として当然の    責任となっていく・・・・。

 ローマ帝国のコンスタンチヌス帝の時代、紀元313年にキリスト教は公認された。迫害の時代は終わり、過去のものとなったことは喜ばしいとしても、信仰の中味、在り方が大きく変化したことをよくよく認め、反省しなければならない。本来のキリストがもたらして下さる平和を見失ってはいないか・・・・と。

<結び>キリスト(メシヤ)の平和、真の平和は罪の赦しの下に一切の争いを止めさせるもののはずである。イザヤ2:1〜4においてメシヤのもたらす究極の平和が描写されている。その平和の完成は天国においてであるとしても、私たちクリスチャンはその前味を地上で味わうことを許されている。それ故に、再び武器を取らないことをこそ実践すべきであろう。
 ・いのちを奪う武器、剣や槍を取ることなく、
 ・いのちを養うために必要な道具、鋤やかまを取ること。

 みことばは、国が国に対して剣を上げることのない、平和の道を歩むことを教えている。これこそが主の民が歩むべき道であると招いている。預言者イザヤが民に語ったとき、民はなかなか聞き従わなかった。私たちは心砕かれて聞き従う者となりたい。

 今日の日本は一体どのような状況なのだろうか。先の国会は再び国をあげて戦いに向かおうとするがごとく、有事関連法、イラク支援特別措置法等を成立させた。人々は北朝鮮の脅威を声高に叫び、軍備増強、はては日本の核武装まで公然と主張する政治家が登場している。イザヤの時代、そして主イエスの時代に人々がこの世の王に力強さを求めたと同じように、力や強さを、そして他を打ち叩くところの勝利こそ人々は求めているかのようである。

 しかし、私たちは主の光に歩もうではないか。私たちは本気でキリストによる「平和の道」を選び取り、その道を選び続け、その道を歩み続ける者とさせていただきた。