証人として生きる
復活の主イエスは、信じられないでいる弟子たちのところに現れ、ご自分の身体を示して、「信じる者になりなさい・・・」と語っておられた。また、食事を共にして親しく交わり、霊でも幻でもないことを示しておられた。主が一番心に留めておられたのは、弟子たちの一人一人がはっきりと主の復活を信じ、復活の証人として歩み始めるように・・・ということであった。
1、主はそのために、ただご自分を弟子たちの前に現すだけでなく、もう一度聖書の教えの中心は何であったかを彼らに教えられた。
十字架につけられる前の約3年間(3年半位)、主は一貫して、旧約聖書に約束されていることは、メシヤであるわたしに関すること、と語っておられた。にもかかわらず、メシヤ観の違いが明らかになって、ほとんどのユダヤ人はイエスを退けてしまった。弟子たちも何がなんだかよく分からないまま、十字架の死に絶望していたのである。
絶望する弟子たちの前に主はよみがえって現れ、聖書の約束は今こそ成就したと明言しておられる。メシヤ=キリストは苦しめられた後、よみがえって、その名による、罪の赦しを得させる悔い改めを全世界に宣べ伝えさせるという福音をもたらす・・・と説き明かされた。弟子たちは、これまで退けられるメシヤ、苦難のしもべ(イザヤ53)の姿をなかなか理解出来ないでいた。けれども、よみがえった主からそのことを知らされると、ようやく少しずつではあったものの、すっきり納得出来るようになった行ったのである。
正しく心が開かれ、聖書を悟ることになった。(45~47節) 主イエスによって、「あなたがたは、これらのことの証人です」と言われたとき、彼らはいよいよ納得の上、世に出て行く覚悟が定まって行った。
2、宣べ伝えるべき教え、福音の中味は「罪の赦しを得させる悔い改め」と言われているが、弟子たちは、悔い改めて罪を赦される幸いを、どのように理解していただろうか。
彼らはみな例外なく、罪や過ち、そして失敗を悔いていたはずである。特にペテロは・・・。
・ゲッセマネで主が捕らえられたとき、みな逃げていた。見捨てて・・・。
マタイ26:56、マルコ14:50
・ペテロは「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と言い切り (マルコ14:29)、「死であろうと覚悟はできている」と強がっていた(22:33)。に もかかわらず、彼は、三度主を知らないと否定した。
そのような弟子たちの前に主が現れて下さったことで、彼らは罪赦されることの幸いをはっきり知ることが出来た。自らの弱さや愚かさを悔い改めること、悔い改める者を主は赦して下さることを身をもって学び、その幸いを体験していたのである。
・どんなに強がったとしても、本当は弱い自分を知る。主に祈られ支えられ ることがなければ、決して立ち上がれない自分を知る。
彼らは主が共にいて下さる喜びや平安は、罪を悔い改める者に赦しを与えて下さる主のみ業に他ならないことを味わい、この幸いこそ宣べ伝えるべきものと、実感していたのである。(ヨハネ20:19、詩篇32:1~2)
3、証人として送り出され、実際に出て行くに当り、弟子たちの心の内で燃え上がる熱い思いは必要としても、主はそれ以上に必要なものとして、いと高き所から、力を着せられるよう待ちなさい、と告げておられる。
復活の証人として歩むこと、生きることには、上からの力、父が約束して下さった聖霊を受けることが、どうしても必要なのである。その力を着せられたなら、その一人一人は証人として、いよいよ歩み出せると、主は保証しておられた。
彼らは、自分には出来るとか、果たさねば・・・と強がる必要もなく、反対に、自分には出来ないと後込みすることもいらないのである。聖書が教えている一番肝心なこと、すなわち、罪を悔い改めて、神から赦しをいただいて生きることの確かな喜びや平安を知ったなら、その赦しを受けた者、与えられた者として歩み出せばよいのである。歩み出す力は上から与えられるのであって、与えられたとき一歩踏み出せばよかったのである。
実際に聖霊を受けたとき、彼らは自分たちの思いをはるかに超えた形で、力強く証人として歩み始め、福音はめざましく広まって行った。彼らは、罪を赦された感謝や喜びを証言することが自分たちのの務めとして生き、復活の証人として歩んだのである。
<結び>「証人として生きる」上で、主イエスは、弟子たちに「力を着せて」送り出そうとされたことは、私たちの信仰の歩みにおいても同じように当てはまっている。神のなさることは万全!!と。
愚かな人たち、信じない心の鈍い人たちとは、弟子たちのことより、私たち自身のことと思えてしまう。もっと愚かで弱い者・・・、それでいて心かたくなで、高ぶっている・・・。
・しかし、主は私たちの心も開いて聖書を悟らせて下さる。
・罪を赦される幸いを与えて下さり、私たちをも復活の証人、キリストの証し 人として下さる。
・何も持たないままではなく、力を着せ、聖霊の導きと助けを与えて送り出し て下さる。
◎私自身、つくづく主が力を与え、送り出して下さっていると思う。聖霊の力、導き、助けなくして今日はない・・・!! 何かをなし得た・・・というのではなく、証人として生きたというだけか・・・。
・愚かにも、何をしただろうかと問い始めると、あれをした、これをしたと 言えることを探している自分がいる。
◎しかし、証人として生きるとは、何かをするというより、証人として生き続けることと気づかされる。罪を赦され、なお生かされているという現実は、神によって、生きることを許されているということである。私たちの存在そのものを、神はよしとして下さっているのである。
◎私たち一人一人、罪の赦しを得させる悔い改めに導かれ、今赦されて生きていることを喜び、主と共に、そして主と共に歩む人々と共に生き抜くことを主ご自身が願っておられることを心に刻みたい。主はすべてを万全に備え、私たちの生涯を守り、導いて下さるからである。