<今日の要点>
生ける神を礼拝するとは、像にでなく、語っておられる御言葉に、心を寄せることによる。
<はじめに:ただおひとりの主なる神を、どのように礼拝するか>
前々回は第一戒「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(3節)から、私たちは、ただお一人の神だけを神として愛するべきことを学びました。
礼拝の対象はこの御方、ただお一人と定まって、では、その御方を礼拝する、御心にかなった礼拝の仕方はどんなものか、という話になります。
それが今日の第二戒です。
礼拝は、ただやればいいというものではない。
正しい礼拝の仕方、神が喜ばれる礼拝の仕方というものがある。
逆に間違った礼拝の仕方、神に喜ばれないーむしろ忌み嫌われる、咎とさえなる(5節)ー礼拝の仕方というものもあるということ。
「心さえあれば、形式なんて、方法なんて」というのは乱暴な話で、礼拝をお受けになる側の意向を無視して、こちらが勝手に自分のやりたいことを押し付けるのは、神を礼拝することでも何でもなく、単なる自己満足に過ぎません。
神御自身が、わざわざ「こういうふうにわたしを礼拝する時に、あなたはもっとも祝福されるのだよ。」
と教えておられる礼拝の仕方。
しかも十戒という、御心をわずか十の戒めにギュッと凝縮した、その中の第二戒に、挙げられているのですから、そこには私たちにとって重大な意義が込められているはずです。
<@神を像とすることを神ご自身が禁じておられる:良い意図であっても>
人類は、実に無数の、雑多な偶像を作り上げてきました。
人の住むところ、偶像ありというくらい、世は偶像で満ちています。
それは一面、人間が神を求めずにはいられない存在だということを物語っています。
何かを拝みたい宗教心・本能が、かなり強く人々の心の深層にあるのでしょう。
日本でも、全国津々浦々まで神社・仏像・地蔵が、人々の根強い支持を受けています。
外国でも、例えばエジプトでは、太陽、月、星、空の鳥といった上の天にあるもの、あるいは下の地にあるものでは、象や牛や果ては糞転がしという虫、さらには、たまねぎ、にらの類に至るまで、神と呼ばれないものはない、といっても過言ではなかったほどでした。
もちろん、ワニや魚もありました。
さらに、空、陸、海と物色して手当り次第に神々を作ってもまだ足りないと見えて、今度は顔は人間で体はライオンとか、顔は蛙で体は人間などという化物を考え出す始末…。

ここまで調子づいてくると、クリスチャンならずとも、批判する人が出てきて、例えばセネカという古代の哲学者も次のように言っています。
「彼らは、最も忌まわしい、また卑しい材料をもって、聖であり、不死であり、不可侵である神々に祭り上げ、これに人間や獣の姿をまとわせる。
彼らは男女の性を混同し、さまざまな体に作る。
そうしてもし、万が一、これに命が通って走り出したならば、怪物として扱われるようなものを『神々』と呼ぶのである。」
悪乗りするのもいい加減にしろ、といったところでしょうか。
もっともこういった偶像を作って拝むのは、天地の造り主を知らない文化に限ったことではなく、旧約のイスラエル人たちも同じでした。
なんとこのすぐあと、モーセが山に登っている間に、これまでモーセの片腕として、ともに主に仕えてきたアロンが、金の子牛像を作って「これがあなた方をエジプトから連れ出した主だ」とやってしまうのです(32章)。
エジプトの神を拝んでいるのではない、主を拝んでいるのだ、と言いつつ、主が禁じられた像を作って拝む。
主の言われたことをないがしろにする。無視する。
それのどこに、神への崇敬、恐れ、愛があるでしょう。
しかし、その悪弊はなんと、新約の時代のキリスト教会にも見られました。
ローマ・カトリックはイエス様の像はもちろん、聖マリヤ、聖ペテロなど、その他掃いて捨てるほど、聖人と呼ばれる人たちの像を作り、人々はその前で祈っています。
これは第二戒に反する罪です。
ギリシャ正教など東方教会も同様で、こちらはイコンと呼ばれる絵が、人々の礼拝に用いられていました。
教会で、イエス様やマリヤ、使徒、預言者、天使などを描いた絵の前に祈りを捧げ、家庭でも神棚のようなものにイコンを置き、明かりを点して、その前で祈りを捧げるそうです。
やがて、「どこそこのペテロ様は、足の病にきくそうだ」などと迷信が出てきて、参拝客で賑わうようになります。
これらはすべて、第二戒で明確に禁じられている罪ですが、キリスト教会の中でさえ、禁じても禁じても出て来るところを見ると、人間の、目に見える像を求める思いは、相当強いものなのでしょう。
像やイコンは無学な民衆への伝道・教育のために用いたのだと言う人もいます。
確かに、目に見える何かがあったほうが、気持ちは入るし、ありがたみが感じられるかもしれません。
しかし、その理屈は、モーセの時代の民だって同じだったはず。
にもかかわらず、神は、偶像を作ることを明確に禁じられたのです。
十戒のうちの第二戒として。
そんな礼拝は、喜ばれるどころか、咎をもたらすとまで言われて(5節)。
<A御言葉に心を留めることによって神を礼拝する:御霊と御言葉によって私たちのうちに形作られるキリストの似姿>
ウェストミンスター大教理問答では、この第二戒で命じられている義務―正しい礼拝の仕方―として、人が勝手に考え出したことでなく、神が聖書において定めておられる礼拝の規定を守る、ということを大原則としています。
そして具体的に、キリストの御名による祈りと感謝、御言葉の朗読、説教、傾聴、礼典(洗礼式、聖餐式のこと)の執行と受領、等々を挙げています(問108)。
今日はそのうち、御言葉に聞くことを取り上げます。
ウ大教理問答では、神の像を作ることだけでなく、心の中で神の姿かたちについてイメージを思い描くことも禁じられているとします(問109)。
神は霊であり、本来、目で見えるような姿かたちを持たないからです。
その代わり、御言葉をよーく聞くように、ということは、聖書において何度も繰り返して命じられています。
神は、目で見えるお姿はもちませんが、語っておられるお方です。
だったら、しゃべることも、動くこともできない偶像の前に頭を垂れて、礼拝した気になっていないで、生きておられ、語っておられるお方の前にこそ、頭を垂れて、その語られた御言葉に耳を傾け、心に留め、神の御心を思い、御心にかなった歩みをするように。
アロンのように、主が語ったことを無視するのでなく、語っておられることに耳を傾けることこそ、神への崇敬、信頼、愛はあらわれるのではないでしょうか。
人間同士の間でも、愛する人、尊敬する人の言葉は、決してないがしろにせず、大切に心に留めるでしょう。
ならば、もし本当に神を敬っているなら、その語っておられる言葉を最大限に尊び、大切にするはずです。
そして御言葉を心に留め、従うときに、私たち自身が神のかたちに、御霊によって造り変えられていきます。
像は像でも、彫刻や金属のような、いのちのない像ではなく、私たち、生きている者たちの間に、生けるキリストの似姿が、形をとってあらわれて来ます。
人間は神に似せて、神のかたちに造られたというとき、その神の「かたち」とは像ではなく、神のご性質のことです。
私たちがキリストの似姿に変えられると言うとき、それはキリストのご性質を反映させることです。
ですから、もし神の、またキリストのかたちを目に見えるようにあらわすとしたら、それはノミや金づちで彫ったり形作ったりするのでなく、御霊と御言葉によって、生きている私たちの間に形作られる姿―互いに愛し合い、互いに仕えあい、互いに赦しあうというような姿―こそ、それなのではないでしょうか。
神が私たちに作って良いと言われる神の姿、むしろ神が喜ばれる神の姿は、唯一、そのような御霊と御言葉によって、生きている私たちの間に形作られる姿ではないでしょうか。
<B恵みを千代にまで:主を愛して、戒めを守ることの祝福>
そのようにして、偶像によらず、御言葉によって神をあがめる信仰生活をするときに与えられる神の祝福と、その反対の呪いが次に語られます(5-6節)。
「ねたむ神」とあるのは、人間が他人の成功や幸せをねたむというのと違い、主なる神が、ご自身の民に忠節・純潔を求めておられるということです。
それを、当時のイスラエル人に理解しやすい表現をしているのでしょう。
偶像なんかに心を寄せて、神のねたみを買うことなど、ゆめゆめないようにとの警告です。
そして「わたしを憎む者」とは、神に愛されているにもかかわらず、神の戒めを聞こうとしない者のことで、その場合は、父の咎を子に報い、三代、四代にまで、と言われます。
これは、機械的にタタリか呪いのようなものが、子や孫たちに下るというのでなく(エゼキエル18章参照。旧約p. 1385以下、特に20節。)
その神を侮る生き方、生きざまが、子どもたちに影響を与えずにはおかないということでしょう。
親の生きざまは、よきにつけ、悪しきにつけ、子に大きな影響を与えるものですから。

他方、主を愛し、主の命令を守る者には、恵みを千代にまで施す、と言われます。
主を愛することと、主の命令を守ることとは、結びついています。
祟りが怖くて戒めを守る、というのも、まったく道を踏み外すよりはまだよいという、いわば次善の策ですが、本来は、神の愛を身に受けて、神を愛し、それゆえ神の言葉を守るのが理想です。
そもそも第一の戒めは、神を愛することですが、それ以外の戒めも、神の愛が動機となることが最上です。
少しでもそこに近づけるように、聖霊の助けを乞い願わされます。
ところで、ここで呪いの方は、三代、四代までで、恵みの方は千代にまで、となっています。
ここにも、神の恵み深さがあらわれています。
神は祝福する方をこそ、願っておられるのです。
この点でも、イエス・キリストが完全に神の戒めを守って下さったおかげで、その恵みを千代にも、今日の私たちにまでも、及ぼして下さっているとも言えるのでしょうか。
「 御言葉なる 光のうち 主と共に歩まば 」新聖歌 316番
先に述べたように、人の心には根強い宗教心があります。
それで像やイコンに手を合わせて拝むことで、一応、宗教心は一時的に満足します。
お手軽、便利なのです。
そして何より都合がいいのは、うるさいことを言わないことです。
ああしなさい、これはいけません、と、人の生き方に口を出してこない。
口がきけませんから。そこがいい。
偶像はお手軽・便利で、宗教心を満たしてくれる、都合のいいもの。
4節の最初の方に「自分のために、偶像を造ってはならない」と神はお見通しでした。
しかし、真の神は、私たちを愛しておられるので、この道を歩みなさい、それは痛みをもたらす道だから、滅びに至るから、そちらに行ってはダメだ、と口を出して下さいます。
場合によっては、その道をふさいで下さったりもします。
主なる神は生きておられ、私たちの生き方、生活を導き、支えていて下さる。
罪びとの私たちにとっては、快適なことばかりとは限らないかもしれないけれども、それに従って大きな益を受け、守られ、最終的には神への心からの感謝と賛美に至るのでしょう。
しかも、私たちの神は、ただガミガミと口出しするだけの神ではありません。
神は私たちを愛して、私たちを罪と滅びから救い出すために、最愛の御子を人として世に遣わして下さいました。
御子イエス・キリストは、私たちの罪を背負って、身代わりに十字架にかかって、苦しみを受けて下さいました。
その犠牲によって、私たちは神の子とされました。
だから、あなた方は、わたしの愛する子となったのだから、わたしの言葉に聞き従いなさい。
わたしは語っているのだから、わたしへの尊敬と信頼と愛を示して、わたしの言葉を聞き、わたしの言葉を心に留めなさい。
そのような心の通った礼拝をこそ、わたしは喜ぶのだから…。
生ける主なる神は、そのように語っておられるのではないでしょうか。
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