礼拝説教要旨(2022.07.24)
朝ごとに、各自が食べる分だけ集めた
(出エジプト記16:13-21) 横田俊樹師 
<今日の要点>
どんな状況でも、私たちの必要を満たして下さる主の慈しみと全能を信頼して、従う。

<あらすじ> 
 荒野で食糧に事欠き、つい、モーセに向かって「こんなことなら、エジプトにいた方がよかった」と詰め寄ったイスラエルの民。
ついこのあいだ、エジプトの大軍を海に投げ込んだ主のみわざをたたえ、歌い、踊って喜んだ民でしたが、彼らはその主の救いのみわざを、目の前の困難と結びつけることができませんでした。
そんな彼らに、主はもう一度、ご自身の全能と慈しみを示すみわざを見せて下さると言われました。
「あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。」(12節)と。

その言葉が実現したのが、今日の箇所です。
荒野に食事を用意することなど、全宇宙の造り主にとっては、それこそ朝飯前でした。
13節「それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。」
本日のメインディッシュはうずらでした。
キジ目キジ科、日本のうずらとは種類が違うヨーロッパウズラと思われます。全長約17センチ、丸っこい体つきで体色は茶色に白い縞が入っています。
季節風に乗って、春(ちょうどこの時期)北アフリカからシナイ半島、パレスチナ地方を通って南東ヨーロッパへ北上、秋には同じコースで南下します。
うずらが移動するのは夜間だそうで、「夕方に」飛んできたのでしょう。
詩篇78:26(旧約p.983)には、神が南風、東風を吹かせて大量のうずらを宿営に落とされたとあります。
ちなみに、このうずら食べ放題の出来事は、この一年後のほぼ同じ時期にも、一か月間と期間限定で起こりました (民数記10:11、11:4以下、旧約p.247,249)。

もちろん、このようなうずらの習性を利用したにしても、男だけで60万人、全員では200万人以上と言われる民の胃袋を満たすほどのうずらが、ちょうどこのとき、ちょうど彼らが宿営している場所に落とされたのは、主なる神の御手によることです。
なお、あるHPによると、うずら肉は栄養面で優秀な食材で、他の肉と比較してタンパク質の含有量が多く、必須アミノ酸も豊富に含み、また鉄分、ビタミンB群もバランス良く含んでいて疲労回復によいとありました。

 次はパンです。
これは出来上がったパンがボタボタ落ちて来るのでなく、パンの材料が霜のように地に降りるということのようです。
朝、一面に露が降りて、
14-15節「その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。イスラエル人はこれを見て、『これは何だろう』と互いに言った。
彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。
『これは【主】があなたがたに食物として与えてくださったパンです。…』」


パンとありますが、これはそのまま食べるのではなく、ひき臼でひくか、臼でついてから、なべで煮て、パン菓子を作ったそうで、その味は、おいしいクリームの味のようでしたから(民数記11:8、旧約p.249)、ベーキングパウダーの入ってないホットケーキの粉みたいなものでしょうか。
23節には焼いてもよいともあり、31節には、その味は蜜を入れたせんべいのようだともあります。
ハチミツかクリームを練り込んだホットケーキ…。

 うずら料理とホットケーキ。
何もない荒野で、主はごちそうを備えて下さいました。なんという恵み。なんという御力。
しかも日々のパンを、イスラエルの民全員に十分に行き渡るように、誰も取り損ねないように、これを集めるときはみな、ひとり当たり1オメル(約2.2リットル)ずつ、と割り当てられました。

16-18節「…『【主】が命じられたことはこうです。
「各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。
各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。」』


そこで、イスラエル人はそのとおりにした。
ある者は多く、ある者は少なく集めた。
しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。
各自は自分の食べる分だけ集めたのである。」

仮に一日二食として、一人あたり一食分の粉の量が1.1リットルいうのは、十分なのではないでしょうか。
ともかくそれくらいの見当で目分量で集めて、家に帰ってオメル枡で計ったら、みなちょうど人数分だったということでしょうか。
要は、イスラエルの民に必要な総量が満たされたということです。
誰か欲張って取り過ぎなければ、みんなに行き渡る分のものを、神は与えておられるということも読み取れるでしょう。
のちに使徒パウロは、ここから、必要以上のものを持っている人は、それを必要が満たされていない人に分け与えるべきという教訓を読み取っています。
彼は貧しい人たちへの醵金を勧める文脈で、こう述べています。

第二コリント8:13-15、新約p.355。

8:13 私はこのことによって、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、平等を図っているのです。

8:14 今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。
こうして、平等になるのです。

8:15 「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった」と書いてあるとおりです。


教会を通さなくても個人的に、飢餓のため、また助けが必要なところのために、捧げている方もおられると思います。
それは御心にかなったお金の使い方だと思います。
このようにして、自発的に富の偏りを少しでも調整することが、主の御心なのでしょう。
 さて、こうして彼らは主から大きな恵みを頂きましたが、中には一筋縄ではいかない者もいたようです。

19-21節「モーセは彼らに言った。『だれも、それを、朝まで残しておいてはいけません。』彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝まで、それを残しておいた。
すると、それに虫がわき、悪臭を放った。
そこでモーセは彼らに向かって怒った。彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。」


翌朝まで取っておくなと言われても、取っておく不信仰、不従順。
毎日、少しずつためておけば、もしパンが降らなくなっても、しばらくはもつ、とでも思ったのでしょうか
もちろん、普段、そのように蓄えることは、何も悪いことではありませんが、このときはあきらかに、その日のうちに食べるようにと、命じられていました。
主は、一日一日、主により頼むこと、主が与えて下さることを体験し、主への信頼を身に着けてほしいと願っていたのでしょう。
だからでしょうか、そうやって主の言葉に背いて取っておいたものは、虫がわき、悪臭を放ちました(ヤコブ5:1以下、新約p.450も参照)。
すべての必要は、ただ主から来る。
主が与え、満たされるということを、思い知ったでしょうか。
一か所、見ておきましょう。
詩篇127:1-2、旧約pp.1038-1039。

127:1 【主】が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。
【主】が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。

127:2 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。
主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。


まさしく彼らは、夜の間、眠って、朝、目覚めると、パン(の材料)が備えられていたのでした。
種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもせず…。
主の御言葉に従うことこそが、必要を満たされるための最善の道なのでしょう。

また、このパンは、朝のうちに集めないと、昼になると溶けてしまい、集めることができなかったようです。
これを霊的に適用すると、主は、朝ごとに新しい恵みを与えられるということです。
哀歌3:22-23、旧約p.1354。
預言者エレミヤの言葉。

私たちが滅びうせなかったのは、【主】の恵みによる。
主のあわれみは尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。


私たちも、朝ごとに主の恵みと憐れみを受け取りたいものです。

「荒海をも うち開き 砂漠(すなはら)にも マナを降らせ」新聖歌301番


今日覚えたい教えは、父なる神の、私たちに対するご慈愛と、全能の御力と、この両方を深く心に留めることの大切さです。

 慈愛というのは、当たり前のように受けてしまって、感謝することを忘れてしまいがちなものです。
私は田舎から東京に出てきて一人暮らしを始めて、はじめて、何もしなくても、時間が来ると三度の食事が出て来ることのありがたみを身に染みて知りました。
当たり前のことですが、一人暮らしをすると、自分で用意するなり、食べに行くなり、何か行動しない限り、食べ物にありつくことはできません。
また、限られたお金でやりくりし、極端な偏食にもならないようにも気を使います。

元気な時は苦になりませんが、疲れたときなどは、つくづく、黙っていても時間が来ると食事が出て来ることは、ありがたいことだなと感じました。

三度三度、食事が出て来るということは、三度三度、食事を用意してくれる人がいるということです。
そのために毎日、献立を考え、やりくりして買い物をし、栄養を考え、作ってくれていたのでした。毎日です。
私たちが必要な糧を与えられているのも、それを与えて下さっている方がいるからです。太陽を上らせ、雨を降らせ、必要な糧を神が与えて下さっていることは、決して当たり前のことではなくて、神の親心、一方的に降り注がれている慈しみによることです。
イエス様は教えられました。

マタイ6:26、新約p.10
空の鳥を見なさい。
種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。
けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。
あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。


この、一羽の鳥にさえ注がれている神の慈しみを見よ、と主は指さされます。
ならば、私たちは、鳥よりも、もっとすぐれたもの。
恵みによって神の子どもとされたものです。
全能の父が、ご自分の子どもを養わないはずがありません。
この天の父のご慈愛を心に刻みたい。

そして神の全能の御力も忘れてはいけません。
特に先行き不透明な時代はなおさら。
私たちの天の父の御力は、文字通り無限大です。
昔、ユダ王国の首都エルサレムがアラムに包囲されて、食べ物がなくなりました。
そんな中、あるとき、エリシャという預言者が、明日の今頃、上等の小麦、大麦がふんだんに売り買いされるようになる、と言いました。
そのとき、エルサレムには、王宮にさえ、どこをどう探しても、そんなものはないのです。
王が倉に隠していたわけではないのです。
それで王の侍従は、「たとい、【主】が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と言いました。
それでエリシャは彼に、「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と言い渡しました。
そして事実、その通りになりました(第二列王記7章、旧約p.643以下)。

最近は、コロナや、ウクライナ戦争の影響で、当たり前のように思っていた普通の生活が、案外もろいものだったことが露呈しました。
物価はじりじりと上がっています。
こういう時代こそ、天の父の慈しみと全能を思いつつ、「私たちの日ごとの糧を、今日もお与え下さい。
祈りたいと思います。
そして、心を尽くして、神の慈しみと、神の全能であられることを信頼できるよう、聖霊の助けを求めたいと思います。
荒野でうずらとホットケーキを200万人以上の分、用意された主です。
天からのパンはこの後、彼らが約束の地に入るまで40年間、一日分も途絶えることなく、継続して供給されました。
200万人以上の分をです。
地上を見回しても、どこにも何も見当たらなかったとしても、天から降ってくるのです。
神が降らせて下さるのです。
それも一日、二日、一週間でなく、一年、二年でもなく40年も!その主は、今、私たちが信じ、お従いしている同じ主であることを思いましょう。
この神から離れず、神に信頼し、従っていきましょう。

マタイ6:33-34、新約p.11。

6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのもの(必要なもの)はすべて与えられます。

6:34 だから、あすのための心配は無用です。
あすのことはあすが心配します。
労苦はその日その日に、十分あります。