礼拝説教要旨(2022.06.12)
羊のためにいのちを捨てる良い牧者
(ヨハネ 10:11〜18) 柳吉弥太師 

 主の2022年の教会の暦は、先週「ペンテコステ」を迎え、以後は「主の日」毎、私たちの救い主、イエス・キリストの十字架と復活を記念しつつ、特に死からよみがえられたキリストを覚えて礼拝をささげ、年末の「クリスマス」へと向かうことになる。
その間に蒸し暑い夏も、またしのぎやすい秋も、何とかして福音を多くの人々に届けたい、また自ら良い証しを立てて歩みたいと、世にある教会は心を配っている。
そのような尊い、ごく普通の歩みを、教会がもう一度取り戻せるように願いつつ、今朝も御言葉に耳を傾けたい。

1、昨年の10月から、次の御言葉に目を留め続けている。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。
だれも誇ることのないためです。

そこには「恵みのゆえに、信仰によって救われた」とあり、救いは「神からの賜物」と言われている。(エペソ2:8)

12月には、「キリストを信じて義とされる救いの恵み」を再確認し、(ローマ3:21-26)今年2月は、「新しく生まれる恵み」について学んだ。
(ヨハネ3:3-8)
前回4月は、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです
」との主イエスの言葉によって、主ご自身が私たちを選んで下さった事実を心に留めた。(ヨハネ15:16)

私たちは皆、主なる神の御手によって守られ導かれ、滅びからいのちへと移され、救いの恵みをいただいている。
その感謝をもって地上の日々を生きるよう導かれている。
このような救いの根本的な理解に、何故に拘るのか、そのことに今朝は先ず触れておきたい。

2、エペソ2章8節の御言葉の大切さは、恐らく世界中のどの教派の教会も、何ら異存なく認めることであろう。
ところが理解を深めようとすると、随分と理解に差のあることに気づかされる。
先ずは天地創造における人間の理解、神のかたちとして良きものとして造られた人間が、神の言葉に背いて堕落した事実をどのように理解するのか、そこに大きな違いがある。
全的堕落」を認めるのか否かである。
人は生まれながらのままでは、決して自分から神を求めることはしない、いやできない。
誰一人として、神の前に義と認められる道を歩めている人はいない。
救いのためには、神が備えて下さった道、「キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる」という道以外にはない。
しかも、その救いの道に人が到達するには、「新しく生まれる」という聖霊なる神の御業が必要となる。

私たち人間の側では、確かに自分で信じることがあり、自分が決断した事実があるとしても、聖霊の導きがあり、また主ご自身が選んで下さったことが、全てに先行していることを感謝すること、これが大切となる。
その選びは「無条件的選び」と知って感謝することである。
そうした理解の微妙な差は、私たち人間の側に何らかの良きものがあると考えることにあり、自分で理解し、納得できる部分を残そうとすることによる。
救いにおける神の絶対的な主権を認めるか否かの問題となる。

3、この微妙で、しかもとても大事な点での理解の差、または違いを覚えた上で、主イエスの言葉、「わたしは、良い牧者です。
良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
・・・わたしは良い牧者です。
わたしはわたしのものを知っています。
また、わたしのものは、わたしを知っています。
」(11〜14節)

に目を留めると、主イエスは「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と言うとともに、その「羊」について「わたしのもの」と断言しておられる。
そして、「わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます」言われた。(15節)
これらの言葉は、イエスが身代わりの死を遂げられたのは、「全人類のため」なのか、それとも「救いに選ばれた人々のため」なのかという、ある意味で最も厄介な神学論争の元となっている。

聖書には「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」とあり(テモテ第一2:4)、またローマ人への手紙では、「ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです」とある(ローマ5:18)。
神学校の授業の「本文釈義」という大事な学びの中心課題となる聖書個所である。
すべて」をどのように理解するのか、自分が知っていることを根拠にして理解するのか、それとも聖書全体を通して理解するのかという、とても大事な視点を学ぶことになる。
すべて」を余りにも単純に考えると、結局は「全ての人が救われる」という「万人救済論」となって、イエスの血潮は「万人」のために流されたことになる。

4、主イエスの血潮が「すべての人のため」に流されたことになると、信仰を拒み、救いを拒む人々は、神が用意された「救いの恵み」を拒むことになる。
従って、ここでの「すべての人」とは、確かに救いに入れられる「すべての人」であって、神の御子イエス・キリストの十字架の血潮は、神の永遠のご計画によって救いに選ばれている、神ご自身の民のために流されたもので、神の民一人一人のために、救いは漏れなく確実に届けられるという意味となる。
これは「限定的贖罪」と言われることで、いわゆる「予定説」についての反論や「限定的贖罪」についての反論は、私たち人間の側で理解することが前提となって発せられるものである。

「本当にそうなの?」であったり、「そんなの不公平・・・」と思うことから始まり、何とか辻褄合わせをしたくなる。
それに対して、救いは「神からの賜物」と理解し、救って下さるのは神ご自身であると理解するなら、一切の疑問は消え去る。
神がご自身の主権をもって、罪ゆえに滅びの道を行く私たち人間を、ご自身の愛によって救いへと導き入れて下さるのである。
神の救いのご計画の確かさの故に、私は救いの恵みに与ったと知る人は、ただただ感謝に溢れて、この地上の日々を送ることになり、やがての天の御国を待ち望む人となる。

<結び> それにしても、救いに関する神の永遠のご計画を理解するのは難しい。
正しく理解できるかと問うなら、私たちに正しく理解する力はないと答えるしかない。
その上で、やはり救いの恵みは、決して行いにはよらないこと、神の一方的な恵みが先行していることを知ることが大事である。
救いの恵みは、決して人間の側の良し悪しとは無関係である。

だから、私も救いへと導かれた。
ただ感謝のみ! 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。
だれも誇ることのないためです。


神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。
ここに神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
」(ヨハネ第一4:9-10)

神が私たちを愛し、御子の十字架の血潮を代価として支払い、私たちを救って下さった。
救いを喜び感謝し、互いに愛し合う交わりへと、私たちが導かれるのは何と幸いなことかと、その幸いを心に刻みたい。

 賛美:「新聖歌」206番(飼い主わが主よ