<今日の要点>
キリストの血による罪の赦しを受けたのだから、悪い種を捨て去り、喜ばしい歩みを送る。
<あらすじ>
一か月前に直前の個所から「過越の祭り」を学びましたが、その続きです。
少し復習しますと、エジプトで奴隷として虐げられていたイスラエルの民を解放せよ、と主は命じましたが、エジプト王パロは「主とは何者か。
この私が従わなければならないとは」と拒否しました。
それで主はモーセを通して、次々と九つのわざわい・さばきをエジプトに下しましたが、あくまでも従うことを良しとしなかったパロに対して、ついに主は十番目、最後のさばきを宣告しました。
パロの初子から奴隷の初子に至るまで、さらには家畜の初子まで、打つということでした。
その際にイスラエルには、不思議な指示が与えられました。
傷のない一歳の子羊をほふり、その血を門の両脇の門柱と、その上に渡してあるかもいに塗るように、というものでした。
主がエジプトの地を行き巡って、さばきを行うときに、主はその塗られた血を見て、その家の前を通り過ぎるからと。
それでエジプト人の家にはわざわいが臨み、イスラエル人の家は免れる。
そしてさしものかたくななパロも降参して、イスラエル人を解放するようになる、というものでした。

その主の救いをイスラエルの民が、子々孫々に至るまで覚えるために、その日には子羊を屠って、その肉を焼き、パン種(イースト菌)を入れないパンと苦菜を添えて食べる。
この儀式を子々孫々に至るまで守るよう、命じられた。
それが過越の祭りでした。
15節はその続き、種を入れないパンの祭りについてです。
過越の食事の日から始まる七日間は、パン種の入らないパンを食べなければならないと、命じられました(15節)。
それで種を入れないパンの祭りと言います。
ですから、過越の祭りの日が、種を入れないパンの祭りの一日目ということになります(マルコ14:12、新約p96)。
七日間、イースト菌で発酵させた、おいしいパンはおあずけ。
味気ない、クラッカーみたいなものだそうですが、それしか食べることができません。
パサパサして、それだけだとあまりおいしくなさそうな気がします。
たかがパン種じゃないか、少しくらいいいだろう、と不届きな者は思いそうですが、これがけっこう厳しく命じられています。
このわずか6節の間に、何度も、少々くどく感じられるくらいに繰り返されています。
しかもこの期間は、ただパン種の入ったパンを食べてはいけないだけでなく、家からパン種をすべて取り除かなければならない、とも命じられました。
すぐ手の届くところにあるというのは、誘惑になるからでしょうか。
ダイエットの経験者は、よく分かると思います。

そしてこの期間に、パン種入りのパンを食べた者は、誰であってもイスラエルから断ち切られる、というのです(15,19節)。
もちろん、ほかの日はイースト菌入りのおいしいパンを好きなだけ食べていいのです。
ただこの七日間に関しては、このように厳しく命じられているのです。
またこの期間中は、仕事も禁じられました。
ただし、食事の用意だけはできました(16節)。
当時は、ガスコンロでひねれば火が出るというわけにはいかなかったので、食事の用意も一仕事だったでしょうが、これはいのちの存続にどうしても必要なことです。
またほかにも、家畜への餌やりや水を飲ませるなど、必要なことは許されたでしょう。
しかしそのほかの仕事は禁じられました。
これは、一週間かけて、ひたすら主の救いのわざを思い巡らすとともに、パン種は腐敗を象徴していたので、神の民として聖い生活を意識させるためでした。
そしてこの一連の祭りは、最初の14日に集まって礼拝をして始まり、最後21日にまた集まって礼拝を捧げて終わりました(16節)。
そしてこのことも世々にわたって、守り行うよう、命じられました(17節)。
主が、実際に歴史に介入して下さって、丸腰の奴隷だったイスラエルの民を、泣く子も黙るエジプトの支配から、救い出したという出来事は、彼らが決して忘れてはならないこととされました。
のど元過ぎれば、熱さ忘れるは、私たち人間の性です。
のちにイエス様も、弟子たちに対して、後々までイエス様の救いのみわざを忘れないようにと、聖餐式を定めました。
十字架にまでかかって、成し遂げて下さった主の救いのみわざさえも、忘れてしまい、ああだ、こうだと不満をため込みがちな私たちのために、ぜひとも必要な主のご配慮でした。

なお、17節、新改訳第三版で「集団」と訳している所、新改訳2017では「軍団」、口語訳「軍勢」、新共同訳「部隊」と訳しています。
英語ではNKJV, KJVは armiesです。
「万軍の主」の「万軍」と訳されているのもこの語です。
奴隷だったイスラエル、丸腰で虐げられて、すっかり卑屈になっていたかもしれないイスラエルの民に、これからは自立した、自由人たる民として、ときには攻撃を仕掛けてくる敵と、あなた方は勇敢に戦わなければならない、と自覚させるためでしょうか
(ウェストミンスター信仰告白第23章2節参照)。
誰かに守ってもらうのでは、その相手に隷属することになります。
彼らは、身体をエジプトの奴隷状態から解放されるだけでなく、精神においても、奴隷根性から、自立した自由の民へと変えられる必要がありました。
19節に「在留異国人」とあります。
前にも言いましたが、主がエジプトの地に前代未聞の激しい雹を降らせるときに、主はエジプトの民に向かっても、さあ、これから雹を降らせるから、あなたがたのしもべも家畜も、避難させなさい、と呼びかけました。
それでエジプト人の中でも、主のことばを恐れた者(信じた者)は、その警告通りに避難させて無事でした。
その主なる神の御力と、そしてエジプト人である自分たちにも救いの手を差し伸べて下さる主の恵み深さ、憐れみ深さを知って、主を信じ、イスラエルの民に加わった人たちもいたのでしょう。
いつまで続くかわからないわざわいから逃れるために、イスラエル人居住区に移り住む者もいたのでしょう。
彼らも、この種を入れないパンの祭りを守るよう、命じられていたということは、彼らも、主のことばを信じて、子羊の血を門の周りに塗って、さばきを免れたのでしょう。
誇り高きエジプト人に生まれながら、変なプライドに固執せず、ありのままの事実を見、主のことばを素直に信じる決断をして、彼らは救われたのでした。
最後20節。
食べ物の制限は、誘惑が強いからでしょうか、念を押します。
「あなたがたはパン種の入ったものは何も食べてはならない。
あなたがたが住む所ではどこででも、種を入れないパンを食べなければならない。」
くれぐれも、パン種はダメだと。
主はこの種を入れないパンの祭りを重んじておられるのです。
「光に歩めよ」新聖歌 335番
過越の祭りは、キリストが流される血によって、罪の赦しが与えられることを表していました。
それに続く種を入れないパンの祭りは、何を表しているのでしょう。
ここではパン種は、堕落・腐敗を象徴していました。
それで、種の入っていないパンの祭りは、罪を取り除く、きよい生活を表します。
第一コリント5:7-8、新約p.323。
使徒パウロは、コリントの教会の人たちを、種の入らないパンと見立てました。
5:7 (あなたがたは)新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。
あなたがたはパン種のないものだからです。
私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
5:8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。
過越の祭りと種なしパンの祭りは、連続する一つの祭りでした。
同じように、キリストの十字架の血による赦しと、それに続く聖い生活は、切り離すことのできない、ひとつのものです。
キリストを信じて、キリストの血によって全き罪の赦しを得たときに、きよい神との関係が回復しました。
神との関係が回復したときに、私たちの内に新しいいのちが始まりました。
だから、古いパン種―古い自分の考え方、性質、苦々しい思いなどーを捨て去って、純粋で真実な思いで新しい歩みをするのです。
そのことを主は望んでおられるのです。
繰り返し言っていますが、罪を犯したらアウトということではありません。
罪を犯さない人はいません。
「純粋で真実なパン」と言われているように、完璧でまったく罪のないというより、純粋であること、真実であることです。
何度でも、その都度、主の前に告白して、キリストの血潮による赦しを確信して、また喜んで立ち上がればいいのです。
きよい良心を保つことが、大切なのです。
それが光の中を歩むことです。
第一ヨハネ1:7-9、新約p.465
1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
(3月20日の説教、出エジプト記10:21-29「光があった」参照)。
せっかくキリストの血潮を心に塗られて、罪の全き赦しを与えられ、まっさらになったのです。
神とともに、永遠の御国を目指して歩む、新しいいのちが始まったのです。
悪い思いが出てくること自体は、生身の人間が世に暮らしているのですから、やむを得ないことです。
ただ、そのような思いが顔を出したら、その都度心の中で、主に告白し、取り去っていただけばよいのです。
赦せない思い、苦々しい思いが出てきたら、何度でも赦します、手放します、神にお委ねします、と申し上げればいいのです。
それらの悪い思いは、放置しておくと、膨らんできます。
やがて手に負えないものになるかもしれません。
そんなものに、主とともに歩む、新しい生活の足を引っ張らせてはいけません。
何よりも、それを放置していたら、神との交わりの妨げとなります。
しかしそれも、キリストの御前に告白するなら、私たちをキリストに結びつけるために益となります。
罪を取り除く生活が、堅苦しい生活でなく、「祭り」と言われるように(17節)、それはキリストの御前で告白して、悔い改めるとき、喜ばしいものになります。
キリストの十字架による赦しを受け、そこからの解放を体験し、さらにキリストの愛を味わうことができるからです。
そのようにしてパン種を取り除く生活を送ることは、神が本来造られた状態に近づくのですから、健全な状態に近づくのです。
いわば、霊のリハビリです。
身体のリハビリでも、始めたからと言って、すぐ次の日に飛んだり跳ねたりできるようになるものではありません。
痛かったり、転びそうになったり、実際に転んだりもあるかもしれません。
それでも、途中でやめてしまわずに、根気よく続けていけば、やがて少しずつ、良くなっていくのです。
立てなかったのが、立てるようになる。
一歩、歩けるようになる。
1m、5m、10m歩けるようになる。
昨日までできなかったことが、ある日、できるようになるのは、うれしいものです。
私たちの霊のリハビリも、根気よく続けることで、長い目で見れば大きな成長を遂げているものなのでしょう。
それを誰よりも喜んで下さるのは、天の父であり、イエス様です。
側について下さって、励まし、助け、導いて下さる主に信頼して、主とともに、生涯、種を入れないパンの祭りを続けさせていただきたいと願います。
また、このパン種の入っていないパンは、罪のないキリストのみからだを表してもいます。
イエス様は最後の晩餐で、このパンを弟子たちに与えて、「取って食べなさい。これはわたしのからだです」と言われました(マタイ26:26、新約p.56)。
罪のないキリストのみからだが裂かれたことを思い、それを自分が取り込んで、そのおかげで自分が生きる者とされた。
そのことを覚えます。
こうすることによって、キリストと一体であることを、ますます感覚的に覚えることができるのではないでしょうか。
そしてキリストと一体であることを覚えるなら、ますます罪から離れ、キリストに喜ばれる歩みをしたいと、願いを新たにさせられるのです。
それは天の父が望んでおられることです。
第一テサロニケ4:3、新約p.399。
神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。…
地道な霊のリハビリを、互いに励ましあい、祈りあいながら、やっていけますように。
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