主の2022年、教会の暦は今日から「受難週」、来週は「イースター」と私たちの救い主、イエス・キリストの十字架と復活を記念する季節を迎えている。
私たちの信仰の中心は「十字架と復活」にあると覚えながら、キリストを救い主と信じて歩むことの大事さを、昨年から学び続けている。
昨年10月、心に留めた御言葉は
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。
だれも誇ることのないためです」
であった。
「恵みのゆえに、信仰によって救われた」、「神からの賜物」と言われる救いを心に留めたかった。
(エペソ2:8)12月には、ローマ人への手紙3章を通して、「キリストを信じて義とされる救いの恵み」を再確認した。
そして今年の2月、ヨハネ福音書3章、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われた主イエスの教えから、「新しく生まれる恵み」について学んだ。
私たちは皆、主なる神の御手によって守られ導かれ、滅びからいのちへと移され、救いの恵みをいただいて、この地上の日々を生かされている。
今回も信仰の始まりに関する、大切な視点についてである。
1、最初の人アダムにおいて神に背いた人間の姿について、聖書は「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。
神を求める人はいない。・・・」と断言していた。
その意味することは、人は生まれながらのままでは、決して自分から神を求めることはしない、いやできない、という事実である。
それは「全的堕落」と言われることで、誰一人、神の前に義と認められる道を歩めている人はいない。
そのような絶望的な人間のために、神が備えて下さったのが「キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる」道である。
神の御子の十字架の身代わりの死であった
そうとしても、その救いの道に人はどのようにして到達するのか? それが大きな課題である。
神が備えて下さったのは、「新しく生まれる」という、聖霊なる神の御業である。
私たちは、聖霊に導かれて、十字架で身代わりの死を遂げて下さったキリストを信じて義とされ、救いの恵みに与る。
これこそが「恵みによる救い」であって、「神からの賜物」である。

2、罪と滅びの中に死んでいた者が、聖霊によって新しいいのちに生きる者とされるとしても、私たち人間の側でも何らかの決心、あるいは決断をしている事実がある。
そのことについて、教会の歴史において、かなり理解の違いがあると気づかされる。
それは最初の人アダムにおいての堕落について、考え方の違いのあることと関連している。
前回に触れた「全的堕落」を認めるのか、それを認めず、堕落していても、神に応答する何らかの良きものを宿していると考える違いである。
後者は、神の働きかけに対して、人間の側に従う能力を残していると言う。
信じる決断をした自分がいることを、強く主張することによる。
確かに、ほとんどの人が、ただボンヤリ、自分の知らないところで信仰が始まっていたとは言わない。
かえって明確に決心した日のこと、何かしらのきっかけのあったことを証しできる。
他のいろいろな宗教でなく、私はキリストを救い主と信じました、と告白するはずである。
聖霊によって新しく生まれた事実があって、信仰を言い表すことができたのは、私が選び、決心して歩み始めたことと。
けれども、主イエスは言われた。
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」
(16節)
この言葉には、神の側での確かな選びがあったことが、はっきりと告げられている。
3、生まれながらのままでは、神を求めることをしないばかりか、神を求めることはできないのが私たち人間である。
神が求めておられる善を願わず、行えず、理解することもない。
けれども、神によって、新しいいのちに生きる者とされて、私たちは、イエス・キリストを救い主と信じ、この方のもとへと近づくことができた。
それこそ「恵みによる救い」に与ったのである。
しかも、自分で選んだのでなく、主なる神ご自身が選んで下さったという恵みである。
選ばれた私たちに、何か良きものがあったのではなく、ただ神ご自身の一方的な選びによって、私たちは救いへと選ばれた。
この選びについては、「無条件的選び」という言葉で語られる。
救いに導き入れられた者は、誰一人として、自分を誇ることはできない。
できることは、救いに導いて下さった方への感謝であり、神に栄光を帰すことである。
どのようにしてか。
救いに入れられた者が、神への感謝に溢れ、互いに愛し合うことによってである。
「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」
(17節)
私たちは、互いに愛し合うためにこそ、恵みによる救いへと選ばれていることを忘れてはならない。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(12節)
選びが無条件であって、選ばれた者に優劣がなく、皆が等しく神に愛されている事実を覚えて、心から感謝することを導かれるなら、私たちの信仰は、きっと良い実を結ぶに違いない。
主イエスはそのことを、弟子たち一人一人に期待しておられたのであり、私たちにも期待しておられる。

<結び> 聖書を注意深く読むと、やはり救いの恵みは、決して行いにはよらないこと、神の一方的な恵みが先行していることを教えられる。
マタイ20章1節以下の「ぶどう園のたとえ」(「ただ私としては、この最後の人にも・・」)、22章1節以下の「王子の結婚披露宴のたとえ」(「通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので・・・」)、ルカ18章9節以下の「パリサイ人と取税人の祈りのたとえ」(「こんな罪人の私をあわれんでください」)など、救いの恵みは、決して人間の側の良し悪しとは無関係であることが、はっきりと告げられている。
私たちは、その福音の教えを心に刻んで、心を低くして地上の日々を生きること、やがての天の御国を仰ぎ見て歩むことを導かれたい。
もし救いが条件的選びによるなら、私たちは、誰一人選ばれることはなかったと知ること、その理解をしっかり持つことによって、私たちは神の栄光が現れることを喜ぶことができるのである。
救いを与えられたことを喜び感謝し、互いに愛し合う交わりが、より深められることを祈りたい。
賛美:「新聖歌」218番(汚れと辱との 深みに陥り)
|