礼拝説教要旨(2022.01.23)
主の栄光を求めて叫ぶ
(出エジプト記8:1-15) 横田俊樹師 


<今日の要点>
主と心が一つになって、置かれた所で御心にかなった判断をし、行動できるように。

<あらすじ> 
 いよいよエジプトに対する主なる神の裁きへと舞台が移りました。
前回は最初の災い、ナイル川をはじめ、エジプト全土の水という水を血に変えるというものでした。
民は飲み水を求めて困り果てていたのに、エジプトの王たるパロは、モーセの前からプイっと身を返して家の中に逃げ込みました。
しかし、モーセの前からは去ることができても、神の前から逃げることはできません。
今度は、王宮の中にまで、災いがパロを追いかけてきます。

主は、パロに下す宣告をモーセに告げます。
1‐2節「【主】はモーセに仰せられた。
『パロのもとに行って言え。
【主】はこう仰せられます。
「わたしの民を行かせ、彼らにわたしに仕えさせるようにせよ。
もし、あなたが行かせることを拒むなら、見よ、わたしは、あなたの全領土を、かえるをもって、打つ。」
裁きの宣告を下すときにも、最初に悔い改めの機会を与えます。
「わたしの民を行かせ、彼らにわたしに仕えさせるようにせよ。」
と。

それでパロが主の言葉に従えばよし。
しかし「もし、あなたが行かせることを拒むなら」カクカクシカジカ、災いが臨むと。
悔い改めのチャンスが与えられているうちに、悔い改めるなら、裁きを免れるのです。
しかしパロは、主の言葉を拒みます。
ために、今度は主は、エジプトの全領土をカエルをもって打つ、と宣告されたのです。

 どうしてカエル?ということですが、カエルは一度にたくさんの卵を産むため、多産の神として「ヘケト」という名であがめられていました。
ちなみに、古代エジプトの象形文字では、オタマジャクシは10万を表す文字、また産婆さんは「ヘケトの使い」と呼ばれていたとのこと。
それで、彼らがあがめていたカエルを、神は、災いをもたらすものに変えられました。
今度は見るのも嫌になります。

3−4節「『 かえるがナイルに群がり、上って来て、あなたの家に入る。
あなたの寝室に、あなたの寝台に、あなたの家臣の家に、あなたの民の中に、あなたのかまどに、あなたのこね鉢に、入る。
こうしてかえるは、あなたとあなたの民とあなたのすべての家臣の上に、はい上がる。』」
ナイル川が血になったときには、王宮に入れば、しもべたちが必死で飲み水を掘って用意してくれるので、パロ自身は痛くもかゆくもありませんでした。
しかし今度は、王宮の中にまで災いが入り込んできて、パロも困り果てました。
ハエが一匹、部屋に入ってきただけでもうっとおしいですが、家中いたるところにカエルです。

運ばれてくる食事を乗せた皿やボールにも、払っても払ってもカエルが入ってきます。
生きたカエルのトッピング…?かまどにもカエルは進軍してきます。
ふたを開けたら、白い腹を上にした蒸しガエル。
カエルの炊き込みご飯…?カエルの姿煮…?歩くときも、椅子に座るときも、ゲロッと鳴き声とともにつぶれたカエルのあわれな姿…。
夜、眠るときも、蚊一匹でもわずらわしいのに、ベッドの上にもカエルが上ってきて、顔にもひっきりなしに上ってこられては、眠ることもできません。
しかしパロは、こう言われても、ナーニ、カエルくらい、から揚げにして食ってやるわい、と思ったかどうか。
とにかく、警告を与えられただけでは、態度を変えません。

それで主は、警告したことを執行します。
主は、アロンに対する指示をモーセに告げ、アロンはその通りにしました。

5−6節「【主】はモーセに仰せられた。
『アロンに言え。
あなたの手に杖を持ち、川の上、流れの上、池の上に差し伸ばし、かえるをエジプトの地に、はい上がらせなさい。』アロンが手をエジプトの水の上に差し伸ばすと、かえるがはい上がって、エジプトの地をおおった。」

エジプト全土でのカエルの大発生。
「カエルの歌が 聞こえてくるよ クワ クワ クワ クワ ケケ ケケ ケケ ケケ クワ クワ クワ…」カエルの大合唱も、多少なら風情がありますが、異常発生で、しかも家の中でやられた分には、たまったものではありません。

 ここでも何を血迷ったか、エジプトの呪法師たちは、またもやモーセと張り合って、カエルを這い上がらせたといいます(7節)。
前回と同じ。
みんなカエルが増え過ぎて困っているのに、これ以上カエルを増やして、どうするのか。
彼らは、俺たちも、モーセに負けてないぞ、とご満悦かもしれませんが、それによって民はますます困っているのです。
呪法師たちは、賢者、知者などと呼ばれていましたが、変なプライドは、人を愚かにし、道理をわからなくさせるようです。
自戒しないといけません。

 パロはここで、わざわいが自分の身に及んで、ついに音を上げました。
8節「パロはモーセとアロンを呼び寄せて言った。
『かえるを私と私の民のところから除くように、【主】に祈れ。
そうすれば、私はこの民を行かせる。
彼らは【主】にいけにえをささげることができる。』」

パロはエジプトの呪法師たちには助けを求めず、モーセとアロンに助けを求めました。
力の差は歴然としています。
それはパロも認めざるを得ませんでした。
本当に困ったときには、意地を張っていられないので、悔しいけれどもモーセとアロンに助けを求めました。
かつて「主とは何者だ」と言っていたパロが、主に祈ってくれ、とすがりました。

 ここでモーセは、大胆な行動に出ます。
祈ることは祈るが、パロがあとから、あれはもうカエルが引く時期だったのだ、お前が祈ったからカエルがいなくなったのではない、などと言わないように、いつ祈ったらいいか、日にちを指定して下さい、と言ったのです。

9節「モーセはパロに言った。
『かえるがあなたとあなたの家から断ち切られ、ナイルにだけ残るように、あなたと、あなたの家臣と、あなたの民のために、私がいつ祈ったらよいのか、どうぞ言いつけて下さい。』」

これは後で見るように、主がモーセに命じたことではなく、モーセが自分で考えて言ったことと思われます。
大胆です。
これに対してパロは「明日」と答えると、モーセは、あなたの言葉通りになるように、と応じます。
しかしそれは、パロに媚びているのではなく、そうなることによって、あなたが主のような神はほかにないことを知るようになるためです、とハッキリ言います。
勘違いするな、と。

10−11節「パロが『あす』と言ったので、モーセは言った。
『あなたのことばどおりになりますように。
それは、私たちの神、主のような方はほかにいないことを、あなたが知るためです。
かえるは、あなたとあなたの家とあなたの家臣と、あなたの民から離れて、ナイルにだけ残りましょう。』」

こう言い残して王宮を後にしたモーセは、そのあと、主に叫んだのでした。
12節「こうしてモーセとアロンはパロのところから出て来た。
モーセは、自分がパロに約束したかえるのことについて、【主】に叫んだ。」
「主に叫んだ」という表現は、危機からの救いを求めるときに特に用いられるようです
(14:15、17:4)。

モーセも、あんなことを言いはしたけれども、これで本当にそうならなかったら、大変なことになります。
主が命じたことなら、必ずそうなるけれども、自分が約束してしまったことは、本当にそうなるのか、不安もある。
それで主に叫ばないでは、いられなかったのでしょう。

 主はそのモーセの叫びに答えられました。
13−14節「【主】はモーセのことばどおりにされたので、かえるは家と庭と畑から死に絶えた。
人々はそれらを山また山と積み上げたので、地は臭くなった。」
12節で「モーセは、自分がパロに約束したかえるのことについて」とありました。
主の命令に従って言ったのでなく、自分がパロに約束したカエルのこと、と。
そしてこの13節でも、「主はモーセのことばどおりにされたので」とあります。
主は、ご自分の言葉通りにではなく、モーセの言葉の通りにされた、と。
パロに言った言葉は、主の指示でなく、モーセが自分で考えて言った言葉だったのです。
そして、それゆえ、必死に叫んで祈ったモーセに、主は「私はそんなことを言ってないぞ。
勝手なことをするな」と怒るのでなく、応えました。
主とモーセの心が一つになった見事なチームワーク。
こうして、各地でうずたかく積まれたカエルの山から、エジプト中に臭気が立ち込めたのでした。

 さて、ことの顛末を見て、パロはどうなったか。
主は、偉大な、力あるお方だ、とひれ伏したかというと、そうではありませんでした。
残念な15節。

「ところが、パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり、彼らの言うことを聞き入れなかった。
【主】の言われたとおりである。」
またもや「強情になり」です。
のど元過ぎたら、熱さ忘れる。
そう簡単にイスラエル人を手放すものか、と心をかたくなにします。
平気で約束を破るパロ。
しかし今や、モーセはここでガッカリしません。
これも主のシナリオのうちにあることを理解しているからです。
モーセも思ったことでしょう。

15節最後「主の言われたとおりである」と。

「祈れ 心を静めて神の御旨は 如何にと知る得るまでは」新聖歌196番
モーセは、自分の頭で考えて、パロに大胆なことを言いました。
主から語られたわけでもないのに、主がこのようにされると、いわば啖呵を切りました。
主を恐れることを知らない者が、軽々しく「主はこうされる」と言うのは冒涜です。
偽預言者です。
しかしモーセの場合は違いました。
主もそれをよしとされて、モーセの言葉通りにされました。
主とモーセは、心が一つになっていたからです。

U歴代誌16:9 、旧約p756
【主】はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわして下さるのです。
…」
欠けや失敗がない、完璧な人という意味ではありません。
基本的なあり方が、主の御名があがめられることを願い、主の御心に仕えたいという願いを持っていることです。
その上で、主は一人びとりに裁量を与えておられます。
箸の上げ下ろしまで、主の指示が必要なのではありません。
基本的な方向性・願いをもって、自分の頭で考え、具体的な判断をし、行動します。
そして、主の御心と一つになっているなら、その願うことは御心にかなう願いとなります。
その祈りはかなえられることになります。

第一ヨハネ5:14‐15、新約p471
5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いて下さるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

5:15 私たちの願う事を神が聞いて下さると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

 では、具体的な神の御心は、どのように知ることができるのでしょう。
聖書を読むこと、聖書を学ぶこと、また、主の祈りを一つ一つ、よく思い巡らして祈ることは、とても有益です。
しかし、今日はローマ12:1−2(新約p308)を読みます。

12:1 そういうわけですから、兄弟たち。
私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。
それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

12:2 この世と調子を合わせてはいけません。
いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

ここには、神の御心を知るために、心の一新によって自分を変えなさいと言われています。
私たちが、神の御心がわからないと言うときに、本当はすでに明らかなのに、従いたくないという心のゆえに、わからなくなっていることがあります。
主に従いたくない内なるパロのゆえです。
しかし、神の主権を認め、神が私たちを御子を下さるほどに愛しておられる、全幅の信頼を置ける方だとの信仰に立って、自分自身を主にお捧げするときに、サーッと霧が晴れるように、御心が明らかになるということが、あります。
もし仮に、私たちが間違ったとしても、正しい心でなされたことなら、主は軌道修正して下さいます。

モーセは、主の栄光のために、主に叫びました。
自分の必要のために熱心に主に祈ることも良いことですが、主の栄光を求めて熱心に祈るというわざにも、富む者でありたいものです。
すべての事柄も、私たち自身も、そのゴールに向けて存在し、アレンジされ、また導かれているのですから。

「御名があがめられますように。
御国が来ますように。
御心が天で行われるように、地でも行われますように。」

お題目でなく、自分の祈りとして主の祈りを積み重ねて、主と心が一つになるように、少しでもそこに近づかせていただけますように。