礼拝説教要旨(2022.01.09.)
主が命じられたとおりに行った
(出エジプト記7:1-13) 横田俊樹師 

<今日の要点>
主に実際に従ったときに、主のみわざがあらわれる。
行動に表すことの大切さを覚える。

<あらすじ> 
一度は意を決してパロと対決したものの、ものの見事に敗北し、同胞からも恨まれて、「やっぱり無理です。
私は口べたなのです。
同胞イスラエル人でさえ、私の言うことに耳を傾けないのに、どうしてパロが言うことを聞いてくれるでしょう。」
と尻込みするモーセ。
しかしモーセはあきらめても、主はあきらめません。
主は、そんなモーセの弱さを思いやりつつも、再度、使命の継続を命じました。
主はそれなら口の達者な兄アロンといっしょに遣わす、と応じました。

1−2節「【主】はモーセに仰せられた。
『見よ。
わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。
あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。
あなたの兄アロンはパロに、イスラエル人をその国から出て行かせるようにと告げなければならない。』」

主は御心を変えず、やり遂げる。
またやり遂げさせて下さる。
挫折で終わらせない。
暴君のように、やれと言ったらやれ、と無理難題を強いるのでなく、弱さを考慮して、助けを備えて。

ただ、前回もすでに主はアロンといっしょにモーセを遣わしていました。
それでもダメだったのですが。
相手を変えるとか、新奇な方法でとかでなく、同じ体制で再度、パロに臨めと言うのです。
これだけでは、モーセも納得できなかったかもしれません。
しかし続きがあります。
3節「わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行おう。」
主は、パロの心をかたくなにして、それでこれでもか、としるしと不思議、すなわち神の偉大さをあらわす奇跡を多く行う、とこれから起こることのシナリオを語られました。
実は、これも前に主が語っていたことです(3:19,4:21)。
しかしいつの間にか、それを忘れて、すぐにでもイスラエル解放が実現する気になっていたのでしょう。

しかし、主はそうは語っておられなかった。
パロは、心をかたくなにすると、最初から語っていた。
そのことに、今さらながらにモーセは気づいたのではないかと思います。
そうか、そうだった。
パロが言うことを聞かないのは、既定路線。
最初からそれは予定通りのことだった…。
続けて主は語ります。

4−5節「『パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す。
わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真ん中から連れ出すとき、エジプトはわたしが【主】であることを知るようになる。
』」パロが聞き入れないことによって、主は大いなるさばきの御手をエジプトの上に置くことになる。
人々が恐れを抱くような大いなるさばきのみわざを行う。
そうしてのち、イスラエルの全集団は、エジプトの地から連れ出される。
その時に初めて、エジプトは、このことを語られ、行われたのはイスラエルの神、主、ヤハウェであることを知ることになる…。
かつて「主とは何者だ」と身の程知らずにも言い放ったパロが、主とはこういうお方だったのか…とそのときに知るようになる…。
そうだ。
パロがかたくなに拒むのは、初めから主が仰っていたことだった。
それによって、主のみわざがあらわれるというのが、主が最初から語っておられた筋書きだった…。

そのことに気づいて、ようやくモーセは納得して、パロの所に出たのでしょう。
6節「そこでモーセとアロンはそうした。
【主】が彼らに命じられたとおりにした。」
モーセたちが主の命じられた通りに行ったときに、歴史の歯車が動き出しました。
ときにモーセ80歳、兄アロン83歳だったと言います(7節)。
知恵も分別もある年齢の二人が、幼子のような信仰の従順をもって、主の言葉に従いました。
私はまだ60にもなっていませんが、年とともに分別臭い顔をして、心はかたくなになって、パロのようになってはいないか…?とも探られます。
そうならないように、いくつになっても、幼子のように神の国を受け入れる信仰を、と願わされます。

第二コリント4:16、新約p350
…たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

彼らはこの後40年、生き長らえます。
彼らにはまだまだ、なすべきことがあったのです。
寿命は、主が決めておられることでした。

 ちなみに、神がパロの心をかたくなにするということの意味について。
@パロ自身の意思でかたくなになるがままに放っておくという意味。
A神が強制的にパロの心をかたくなにするという意味。
Bパロ自身の意思でもあり、神の御手によることでもある。
どちらかではなく、両方。
以前にも言いましたが、聖書が教えているのはBだと私は思います
(参考:第一ペテロ2:8、新約p454)。

三位一体の教理のように、人間的には理解しがたいことですが、神の主権・聖定と人の自由意思は、矛盾することなく両立するというのが、ウェストミンスター信仰告白の理解です(3:1)。
パロは自分の意思で心をかたくなにしたという事実に対して、さばきを受けなければなりません。
神がそうしたんだから、俺には責任がない!とはならないのです。
人間は責任ある主体として、造られています。

それにしても、前はイスラエル人が、主を知るようになると言われていましたが(6:7)、今度はエジプト人が主を知るようになると言われています。
同じ主を知るでも、中身が天と地ほど違います。
イスラエル人は、自分たちが救われることにおいて、主を知り、エジプトは自分たちが裁かれることによって、主を知るようになるのです。
主を知ると言って、どちらの側で主を知るのが良いでしょうか。
イエス・キリストを信じて、救われる側で主の愛と真実、恵み、正義を知って、永遠に神を喜び、ほめたたえるように主を知るのと、イエス・キリストを拒んでーパロが心をかたくなにしたようにー永遠の嘆き、苦しみ、恥辱の中で、主は真実だった、愛、恵み、正義だったと、歯ぎしりしながら、主を知るのと。
気持ちを害するかもしれませんが、ハッキリと宣言しておく責任を教会は果たさなければいけません。
私たちは、一人でも多くの方が救われることを願い、福音を宣べ伝えつつ、自分のような者が、神の憐れみにより、キリストの救いに導いて頂いたことを、ただただ一方的な恵みとして、感謝し、御名をほめたたえるばかりです。

 さて8節以下は、モーセ達がパロの所に行くことを決めてから、語られた言葉でしょう。
従う決心をしたら、次のステップが示されるものです。
今度は、パロは「おまえたちの不思議を行え」と言ってくる。
そのとき、あなたはアロンに、「その杖を取って、パロの前に投げよ」と言うのだ。
それは蛇になる…。
当時、エジプトは神政政治で神々からの託宣を受ける者、呪術を使う者たちが王宮にいました。
彼らの理屈によれば、神の使いであるなら、そのしるしとなる奇跡を行うことができるはず、ということでした。
それでパロが、それを求めて来たら、これこれこのようにせよ、とあらかじめ対応策を教えられるのです。
モーセとアロンはそのとおりに行いました。
アロンは自分の杖をパロとその家臣たちの前に投げました。
すると、それは蛇になりました。
投げたら、蛇になった…。
主の命令に従ったら、主の御言葉の通りになったのです。

しかし、このくらいで白旗を挙げるパロではありません。
お抱えの呪術者を呼び寄せて、同じことをさせました。
この呪術者の名前は、ヤンネとヤンブレとわかっています(第二テモテ3:8、新約p416)。
彼らは杖を蛇にしたということですが、これには、蛇に催眠術をかけて棒のように硬直させていたのを、催眠術を解いて地面に放り投げたのだ、などと説明がなされますが、悪霊も限定的な奇跡は行えるので、悪霊の力によって行ったのかもしれません。

第二テサロニケ2:9-10、新約p403
2:9 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、
2:10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。
なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

先日の祈り会のショートメッセージで言いましたが、しるしを求めるのは、姦淫の時代の特徴です。
いたづらに肉の欲を満足させるエキサイティングな刺激を求めるだけで、神の真実なご愛を求めてはいません。
私たちも、いたずらに、テレビなどに出てくる占いや霊媒師や超能力者などを好んで見ないようにしたほうがよいでしょう。
もしそれが悪い霊によるものであれば、信仰や希望、愛といったものを分からなくさせてしまうかもしれません。
そのようなものは遠ざけて、私たちは、十字架と復活にあらわされた神の真実なご愛を大切にし、育む者でありましょう。
福音の真理を愛しましょう。

 彼らも、杖を蛇にしましたが、しかしアロンの杖は彼らの杖を飲み込んでしまいました(12節)。
のちにエジプトに降る災い、裁きを暗示していたのかもしれません。
パロに、その事に気づく心があればよかったのですが、自分に都合の悪いことは、人は見ないものです。
見たいところだけ見る。
パロは、呪術者たちも同じことができたのだから、と主を認めることはせず、心をかたくなにしたのでした。
主が語っておられた通りでした。

新聖歌316番「御言葉なる」
今日は、神の命令に従うということを心に留めたいと思います。
今日の箇所には6節、10節にモーセとアロンは、主が命じた通りにした(行った)と繰り返されています。
特に10節には、アロンが自分の杖をパロとその家臣たちの前に投げたとき、それは蛇になった、とありました。
投げたときに、蛇になった…。
杖を投げなかったら、何も起こらなかった。
アロンが、「もし、杖を投げても何も起こらなかったら、パロや家臣たちの前で赤っ恥をかくなあ」などと疑って、投げなかったら、主のわざは起こりませんでした。
主は、お一人ですべてをなさることができますが、主の御心は、私たちの従順を通してみわざが行われることです。
福音宣教のみわざも、主は私たちの従順を通して達成されるのが、御心です。

主が命じられたとおりにしたという記述は、創世記でも信仰者の模範としてこれまでにも記されていました。
義人と言われるノアがそうでした。
巨大な箱舟を作るよう、主から命じられたときに、周りの人々のあざけりを受けながらも、従いました。
創世記7:5
ノアは、すべて【主】が命じられたとおりにした。

信仰者の父と呼ばれるアブラハムも、75歳で行く先を知らずして従いました。
創世記12:4
アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。

「主が命じられたとおりにした」は聖書では、最高の誉め言葉。
最高の評価と言えるでしょう。
キリストを信じる者は、そのために召されました。

第一ペテロ1:2、新約p452
父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。
どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。

生ける神の御子でありながら、私たちを愛し、私たちのために、いのちさえ捨てて下さったお方の御言葉です。
悪いものであるはずがありません。
このお方を信じて、このお方に従う。
この単純な真理を心に刻みましょう。
その先に、神の栄光を見る幸いが待っています。
出エジプト記で、これから繰り出される主のみわざの記述は、いわば、モーセが主に命じられたとおりに行ったという単純なものです。
この繰り返しで、出エジプトという主のみわざが行われ、神の栄光があらわされたのです。
従うときに、主がともにおられるという臨在の体験を恵まれ、神の栄光を知る幸いにあずかることができるのです。

最後にヤコブ1:22、25新約p446。

1:22 また、みことばを実行する人になりなさい。
自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

1:25 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。
こういう人は、その行いによって祝福されます。

主の御言葉に従うことによって与えられる祝福に富む者でありますように!