<今日の要点>
自分が造られた目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶためであることを認める。
<はじめに:針路を確認して>
新しい年の船出にあたり、自分がどの方向に向かって進んでいくのか、針路を確認することは意味のあることです。
「針路」とは、船や飛行機などが、羅針盤などを使って知る、正しい方向のことです。
間違った方向に向かっていたら、どれだけ頑張っても目的地に着きません。
どの方向に向かって進んでいるのか、確認することは大切なことです。
イエス様が、「こう祈りなさい」と教えた主の祈りの一番最初の祈願「御名があがめられますように」は、私たちの歩むべき方向を示す羅針盤です。
昔の航海士は、北極星を頼りに船の位置を定め、目的地に向かって正しい針路をとったと言います。
この祈りは、私たちの人生行路の北極星であり、羅針盤といったところでしょうか。
もちろん、私たちには、健康であるようにとか、家族が平和であるようにとか、必要が満たされるようにとか、身近な願いというのもあります。
それももちろん、いいのです。
ただ、一番の願い、人生を貫く根本的な願いは、神の御名があがめられるように、ということなのです。
<万物が造られた目的、人が造られた目的>
なぜかというと、造られたすべての物は、そのために造られ、存在しているからです。
万物は、その目的に流れ込むようにアレンジされています。
私たち人間もそうです。
人間が造られた目的は、神の御名があがめられるように、ということです。
ですから、私たちが神の御名があがめられることを目的としたときに、他のすべてのもの、万物もその目的に向けてアレンジされているのですから、すべての歯車がかみ合うのです。
予定調和というのでしょうか。
神の意図に、私たちの心を寄せて(逆ではありません。)、一つとなる時、すべては私たちのために益となって働くのです。
私たちが祈っても、祈らなくても、神はご自身の栄光をあらわされます。
それなのに、私たちにこのように祈りなさいと教えられたのは、私たちの心を神の御心に寄せるためではないでしょうか。
ある人は「もし、ある人の一番大切な仕事が、主に仕え、主をお喜ばせすることであるならば、それを取り巻くすべての環境は、その人のしもべとなってしまう。」
と言っています。
全ての環境ー逆境、試練、困難も、すべて。
また、御名があがめられるように、という願いを持つことは、私たちを悪から離れさせます。
神の御名を汚すことになるような事はできないと、ブレーキになります。
また、善を行わせる原動力にもなるでしょう。
神の御名があがめられるために、進んで善を行うよう励むという事です。
イエス様は、人々があなた方の良い行いを見て、天の父をほめたたえるようにしなさい、と他の所で教えています。
また、18世紀のバロック音楽の大作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハは、自分の書いた作品の最後にSDGと記したというのも有名なエピソードです。
Soli Deo Gloria ただ神のみに栄光を、という意味です。
彼の偉大な作曲の数々の源泉は、神に栄光を帰したいという、彼の願いにあったのかもしれません。
変に自分に囚われないと言いますか。
神の御名があがめられるため、という目的を、面白くないと感じる人もいます。
「体にいい食べ物というのは、だいたいまずいものだ」と誰かが言ったそうですが、神の御名があがめられるという健全な目的を、つまらないと感じる人もいると思います。
しかしそれは、食わず嫌いかもしれません。
この目的に針路を定めて、そこに向かって進むことは、喜びを与えてくれます。
世が与える楽しみとは、違う喜びです。
神に信頼し、神に従う歩みを通して、神の栄光をあらわす歩みをするときに、人は満たされるように造られているのです。
ウェストミンスター小教理問答第一問の答も「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。」
です。
ここの「目的」は単数ですから、「神の栄光をあらわす」ことと「永遠に神を喜ぶ」こととは、一つのことです。
神の栄光をあらわすことが、そのまま人の喜びなのです。
<神はあがめられるにふさわしい方だから>
誤解しないでいただきたいのは、神の御名があがめられるように祈るということは、神がそれにふさわしい方だからということです。
素晴らしい絵を見たら、ああ、素晴らしいと感動するのが自然な反応でしょう。
あるいは、誰かの偉人伝のようなものを読んで、その人の真実みたいなものに触れた時、感動して、その人を尊敬する思いが自然と起こるでしょう。
そのように、この世界を造られた神は、素晴らしいお方だから、あがめられるようにと祈るのです。
まずいものをうまいと言え、というのではないのです。
どこかの将軍様とやらが恐ろしくて、将軍様マンセーと、心にもない事を言え、というのではないのです。
おいしいものだから、おいしいと言うのが当然ということです。
神は、この全世界を、宇宙をお造りになり、今も支えておられる方です。
地球から、1秒で地球を7周半回る光の速さをもって、何年、何十年どころか、何万年、何億年、何十億年先にもまだ天体があるという、その気の遠くなるような広大な宇宙をお造りになった方です。
文字通り、全知全能の方です。
青空、降り注ぐ太陽の光、緑に覆われた山々、海、とりどりの食べ物…。
神の無限の知恵と力をもって、世界は絶妙に造られています。
しかし時に、不都合なこともあります。
自然は猛威を振るうことがあり、コロナのような疫病がまん延することもあります。
これはどういうことでしょうか。
C・Sルイスというキリスト教の作家がこんなたとえを書いているそうです。
ここにあるホテルがあるとします。
最高級というほどではありませんが、必要なものはそろっていて、食事もできるし、ベッドで休むこともできるし、特に不自由するわけでもなく、そこそこのホテルです。
さて、そこに、誰かが泊まることになったとしましょう。
そのときに「あなたが泊まるホテルは、一泊数万円の、最高級のホテルです。」
と言われて、そのホテルに入ったら、ガッカリし、文句や不満が出るでしょう。
あれがない、これがない。
ベッドが一回り小さい、固いなどなど。
ところが、もう一方は、「これが、あなたが入る刑務所です」と言われて入ったらどうでしょうか。
これが刑務所?なかなかいいじゃないか、そこそこおいしい食事も出るし、ゆっくり休めるベッドもあるし、とむしろ感謝するでしょう。
同じ部屋でも、そこをどういう場所と思っているかで、違う反応になるのです。
そこでC・Sルイスは言います。
私たちが今、住んでいる世界は、私たちの先祖が神に罪を犯したため、エデンから追い出された世界、いわば刑務所である。
そう思うと、これはずい分と恵まれた刑務所ではないかと。
世界は、神の恵み深さで満ちていて、感謝が捧げられるべきものではないでしょうか。
ともかく、神は全世界、全宇宙を造られた全知全能の方です。
偉大な、大いなるお方です。
と同時に、神は、私たちをこの上ない愛をもって愛して下さいました。
天地の造り主が、御子を下さったほどに私たちを愛しておられるのです。
私たちを罪のもたらす滅びから救い出すために、御子イエス・キリストが身代わりとなって十字架にかかって下さいました。
そのために、神は最愛の御子を世に遣わされました。
ただただ私たちを愛するがゆえに。
愛以外に理由はありません。
神は、あの十字架において、ちりほどの疑いの余地を残さぬほど、ハッキリと私たちに対する愛を示されました。
この一事で、すべての疑問は吹き飛んでしまうものでした。
使徒パウロの言葉を聞きましょう。
ローマ8:35、38-39、新約p302
8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
…
8:38 私はこう確信しています。
死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
神は、私たちを愛しておられて、一瞬たりとも忘れることなく、決して見放すこともありません。
それどころか、いつも私たちのそばにいて下さって、片時も離れることがなく、髪の毛一筋にさえ、心を配っておられます。
夜もまどろむことなく、私たちを見守っていて下さいます(詩篇121篇、旧約p1036)。
神の全知全能であることと、その神が自分を御子を下さったほどに愛しておられるということ。
この両方を深く心に覚えるときに、この素晴らしい神の御名があがめられるようにという願いが、(お題目でなく)自分の願いとして、自然と心から湧いて来るのではないでしょうか。
<神のすばらしさを知って、心からあがめる>
神はすべてのことを、ご自身の御名があがめられるように、お定めになりました。
ですから、私達にも何か、神の御名があがめられるためにできることがあるはずです。
私たちの日々の祈りの中で、今日、神の御名があがめられるために、具体的に、何をしたらよいでしょうか、と神に尋ねてもよいでしょう。
そういえば、あの人がこういうことで助けが必要だが、自分はこれこれこういう点で助けとなれるかもしれない、とか、あるいは神をほめたたえる、賛美するということも、神の御名をあがめることです。
そして、願わくは、私たち自身、もっと神のすばらしさを知って、心から神の御名をあがめる思いが強められることを願うべきではないでしょうか。
神のすばらしさを体験を通して知った時に、自発的に神への賛美が湧いて来ます。
神の御名があがめられるように、という祈りは、神のすばらしさが現れるようにという祈りでもあるように思います。
神のすばらしさが現れた時に、神への賛美が湧き起こるのですから。
ですから、私たちが神のすばらしさを知ることを求めることは、御心にかなった願いです。
そして御心にかなった願いは、必ず聞かれます。
第一ヨハネ5:14-15、新約471
5:14何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
5:15 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
この年が、より深く神を知る一年となりますように。
|