<今日の要点>
人間には絶対にありえないと思うことでも、神は御心を行われる。
<あらすじ>
勇気を、信仰を奮い起こして、パロに「イスラエルの民を荒野に行かせて、礼拝を捧げさせよ、と主は命じておられる。」
と神の預言者の威厳をもって語ったものの、パロには通じず、あえなく撃沈。
かえって、大きな民衆運動になるのを恐れたパロは、芽のうちに摘むにしかず、とばかりにイスラエル人の苦役をさらに重くし、ためにモーセは、同胞イスラエル人から恨まれる羽目になった。
たまらずモーセは、すぐさま主のもとに戻って、「これは一体、どういうことですか。」
と訴えました。
それに対して主は
「恐れるな、モーセよ。わたしのしようとしていることは、今にあなたにわかる。」
と余裕綽々(ヨユウシャクシャク)で応じて、「かつてアブラハム、イサク、ヤコブたちと結んだ契約を、今こそ、わたし、ヤハウェが行う。
あなたがたをエジプトから解放し、約束の地カナンへ連れ出し、そしてその地をあなたがたに与える、こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主(ヤハウェ)であることを(実際に体験して)知るようになる。」
と答えられたのでした。
神からこのように語られたモーセは、再度、勇気を振り絞って、同胞イスラエル人に告げました。
が、彼らはもはや、聞く耳を持ちません。
もうその話はいい、所詮、無理な話だったんだ。
すっかり失望し、落胆していました。
また実際、激しい労役のために、聞く気力すらありませんでした(9節)。
モーセは、何とか彼らに希望を与え、もう一度、立ち上がらせようとしましたが、空振りに終わり、がっくりと肩を落とすのでした。
しかし、主は構わず、モーセに使命の継続を求められます。
10-11節「主はモーセに告げて仰せられた。
『エジプトの王パロのところへ行って、彼がイスラエル人をその国から去らせるように告げよ。』」
主は、まったくブレず、揺るぎません。
あっけにとられるモーセ。
さっきのイスラエルの民の様子を、ご覧になっていなかったのですか…。
12節「しかしモーセは【主】の前に訴えて言った。
『ご覧ください。イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。
どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口べたなのです。』」
コンプレックスがあるところは、壁にぶつかった時にぶり返すものです。
「やっぱりダメです。私は口べたなのです」前と同じことが出てきました。
モーセが尻込みするのも、当然と言えば、当然。
一度、ダメだと言い渡されたのに、また同じことをパロに要求するのですから。
我が輩をなめておるのか!と今度は首をはねられるかもしれません。
しかし、主は、そんなモーセの弱さに付き合いつつ、御心を変えません。
ならば口の立つアロンをつけようと、もう一度、モーセの弱点を補う手を打って下さいます。
13節「そこで主はモーセとアロンに語り、イスラエル人をエジプトから連れ出すため、イスラエル人とエジプトの王パロについて彼らに命令された。」
何回同じ言い訳を言うのだ、サッサと行け!と怒鳴りつけるのでなく、忍耐強く励まし、支えるのです。
私たちも,どれほどこの主のご忍耐に支えられていることでしょうか。
さて、このあと、いよいよ、主のみわざが始まるのですが、その前に14節以下、この出エジプトに際して主が用いる指導者モーセとアロンの身元を明らかにするための系図が記されます。
彼らは、レビの家系に属することが証明されます。
のちに、このレビ部族が、神に仕える祭司や幕屋の奉仕をする部族となります。
14節にイスラエル(ヤコブ)の長子ルベンの子どもたちから始まって、15節は次男シメオンの子孫、そして16節が三男レビの子孫になります。
系図の目的が、モーセとアロンの血統を示すことなので、四男のユダ以下は省略です。
そして16節のレビの子たちで三人の名が記されますが、その中のケハテの子たちが18節に記されて、その一番最初にアムラムという名が記されます。
このアムラムが、モーセとアロンの父親で、20節に「アムラムは父の妹(つまり叔母)ヨケベテを妻にめとり、彼女はアロンとモーセを産んだ。」となります。
父の妹と言っても、当時はかなり年の差があることが珍しくなかったので、年齢的にはそれほど違わず、当時はよくあることだったのかもしれません。
こうして、系図の結び26節で「【主】が『イスラエル人を集団ごとにエジプトの地から連れ出せ』と仰せられたのは、このアロンとモーセにである。」
と二人を指さします。
続けて27節では、主の命令に従って、パロに向かって、イスラエル人をエジプトから連れ出すようにと言ったのは、このモーセとアロンであった、と繰り返します。
これを書いたのはモーセですが、これは、彼らが自慢するためではなく、権威の所在をしっかりと押さえておく必要があったのでしょう。
26節をよく見ると、主がこれこれを仰せられたのは、このアロンとモーセである、とあって、これは彼ら自身から出たことではなく、主から出たことだと言っているのです。
あくまでも、出エジプトの大事業は、神から出たことと、栄光を神に帰すのです。
と同時に、民がモーセに逆らって、その実、実際はモーセを召して立てておられる主に対して罪を犯さないように。
主が語られたことなのだ、と押さえておく必要があったのでしょう。
そういえば、よくよく見てみると、24節「コラ」の名が出てきます。
彼は、のちに250人のリーダーたちをそそのかし、共謀して、モーセとアロンに逆らい、
「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、【主】がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、【主】の集会の上に立つのか。」
(民数記16:3、旧約p259)
と言い出した者でした。
ために彼らは、神に裁かれ、地は口を開けて、彼らを飲み込んでしまったと言います(同28-33節)。
さらに23節に出て来る、モーセにとって甥っ子の「ナダブとアビフ」という名も、モーセは深い痛みとともに記したでしょうか。
アロンの子として祭司として神に仕えるべく召されていながら、神を侮り、軽んじたために、神に裁かれました(レビ記10:1以下、旧約p185)。
この系図は、神への恐れを忘れるな、というメッセージも透かし模様のように込められているのかもしれません。
25節の「ピネハス」は、イスラエル人が罪を犯して、神罰が下っていたときに、同族を敵に回してでも、キッパリと神の心を自分の心として神の側に立ち、イスラエル全体が滅びるのを食い止めた人物です(民数記25:1-13、旧約p278)。
これも、そのようなエピソードを知っている、のちのイスラエル人たちに、戒めとなったでしょう。
そして、26−27節では、民に神の権威を重んじさせるために、主がお語りになったモーセとアロンの二人をキッチリ示しながらも、しかし、くれぐれも、これから記される驚くべき、大きな奇跡の数々が、モーセ自身から出たことではなくて、神から出たことであることを強調するためにでしょう、モーセは、28−30節で、再度、自分自身は、パロを恐れて、尻込みするばかりでした、と繰り返すのです。
「【主】がエジプトの地でモーセに告げられたときに、【主】はモーセに告げて仰せられた。
『わたしは【主】である。
わたしがあなたに話すことを、みな、エジプトの王パロに告げよ。』しかしモーセは【主】の前に申し上げた。
『ご覧ください。私は口べたです。
どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。』」
モーセは、自分が威張りたくて、英雄になりたくて、言っているのではないことが、ここから明らかです。
モーセは自分で自分に栄光を帰していると、誤解や悪意の中傷を向ける者は、よく聖書を読むように、です。
モーセの願いは、すべては、ただ神がなさったこと、神から出たことだから、これを読むあなたがたも、ただ神を見上げて、神にのみ、栄光を帰して下さい、神を恐れて、神に従う心を持ちなさい、ということなのです。
また、モーセも、何も恐れることを知らない勇者だったわけではなく、生身の人間だったということも、こういう箇所を読むと思わされます。
恐れを知らずに、パロに立ち向かったのではなかった。
恐れながらのへっぴり腰でも、そこで退却してしまうのでなく、そこで踏ん張った。
恐くて足はブルブル震え、心臓はバクバク言ってるかもしれないけれども、それでもそんな状態でも、パロの所に行き、主の言葉を宣言する。
震えながらでも、結局、従っている。
こういうのも、一つの信仰のあり方というか、むしろ、ある意味ではそういう姿勢こそ、偉いなあ、と思います。
まったく恐れない信仰は無理でも、恐れに支配されてしまわない、踏みとどまる粘り強さ、みたいなところを見習いたいなあ、と。
<「主は御心 成し給わん」新聖歌301番>
今日は10-13節と29-30節に繰り返されていた「どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。」
という言葉に思い巡らしたいと思います。
私たちにもないでしょうか。
どうして○○が、△△をするでしょう、どうしてそんなことが、ありえるでしょう、と思うことが。
同じ長老教会に属する四日市教会に、Yさんという方がいます。
彼女は、中学一年の時、教会へ行ってイエス様を信じました。
その時以来、習慣とされていた仏前に備えた物の下げたものを食べることを拒否し、仏壇を拝まなくなりました。
お父さんは面白くありません。
お父さんは、熱心な浄土真宗の信者でした。迫害も半端ではありません。
聖書を隠すことはもちろん、日曜日になると柱に縛り付けたり、挙句の果てに「子どもを教会へ行かせない会」を親戚と結成して反対し続けました。
そんな反対が六年間続いたそうです。
しかし鬼のような迫害者であったお父さんも、心の奥底では、だんだん「娘をあれだけ引き付けているキリスト教とは何だろう」と思うようになっていきました。
そんなある日、Yさんが年頃になったとき、縁談がいろいろあるのでお父さんは心構えを娘に尋ねました。
「どうだ、貧しくとも仲のいいのと、金持ちの家でも争いのあるのとどっちがいい」するとYさんは聖書をもってきて箴言17章1節を開いて読み始めました。
「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」お父さんはこれを聞いて、驚きました。
「聖書って、なんてすばらしいことが書いてあるんだろう」読まず嫌いという方が多いのです。
それから迫害の鬼だったお父さんは、熱心な求道者に変わりました。
その晩から娘の聖書を借りて読み出し、反対し続けていた四日市教会へも出席し始めました。
そしてこのお父さんもたいした方で、創世記から始めて、あの分厚い旧約聖書を読み終えて新約聖書に読み進み、ついにヨハネの福音書3章16節まできたとき、サーッと救いの光が射し込みました。
「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
この御言葉で、お父さんはキリストの愛と救いがわかったのです。
これにて、めでたく救われました。迫害者は、回心すると強力な推進者になります。
お父さんは、さっそく先祖から代々受け継いできた仏壇を処分し、寺と神社との縁を断ちました。
同時に檀家総代と建築の同業者総代の所へ行って、「自分はクリスチャンになった」と宣言しました。
嵐のような罵倒と反対を、今度はお父さんが親戚、檀家、同業者から受けました。
これまで散々やってきた側ですから、少しくらい、やられてもいいでしょうか。
パウロみたいで。
その後、家族四人そろってイエス様を信じるようになったそうです。
どうしてパロが…、どうしてあの迫害の鬼が…。
この人だけは、絶対にクリスチャンにならないだろう、という人がひっくり返ったという話は、結構あります。
ただし、そこに至るまでは、甘くはありません。
Yさんも迫害を受け、耐え忍んで後に、神の御手がお父さんに臨みました。
試練を通らされるけれども、神は、人の目に不可能と思えることを成し遂げられるのです。
「どうしてパロが、私の言うことを聞くでしょう」とモーセが思ったような、人の目には不可能と思えることが、
あるかもしれません。
しかし、神には不可能は一つもありません。
神は、弱い者を励まし、支え、強い者をも従わせて、ご自身の御心を行われます。
御名があがめられるように、御国が来ますように、御心が、天で行われるように、地でも行われますように、と祈りつつ、主にお委ねして、主にお従いしましょう。
詩 37:5、旧約p939
あなたの道を【主】にゆだねよ。
主に信頼せよ。
主が成し遂げてくださる。
もう一つ。
第一ヨハネ5:14、新約p471
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
|