山上の説教の冒頭で、主イエスは、神の子とされた弟子たちの八つの幸いの一つとして、
「平和をつくる者は幸いです。
その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5:9)と語られた。
この8月の日々を、「平和をつくる者」として歩んだろうか、と問われる思いがする。
6日、9日、そして15日に、それぞれが歴史の事実を思い返したに違いない。
毎年この三日は、必ず公の記念式典が行われている。
日本長老教会は、8月には何とかして「平和」や「戦争」に関して、礼拝や学び会で御言葉から教えを受けるように取り組んでいる。
より深くまた正しく歴史を心に刻むために。
今朝はその視点を覚えて御言葉に耳を傾け、山上の説教の中で主が教えて下さった「主の祈り」の一端に触れる。
1、「私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」(12節)と祈る時、心から祈れているのか、心の内が問われることがある。
自分の罪が赦されたという幸いは計り知れない。
キリストにある罪の赦しを受けた私たちである。
それなのに他の人との関係において、赦すことが難しいと心騒ぐ時がある。
赦していない自分を思い知らされたり、時に苦手な人がいると思い知る。
だからこそ、赦された者が赦す者になるよう、弟子たちは諭されたのに違いない。
14~15節はそのために語られたと。
赦すべき他の人の「罪」と、自分が赦された「罪」「負いめ」の間には、途方もない開きがあることがある。
赦される筈のない「負いめ」を赦されていながら、他の人の「負いめ」を赦せないのは、大きな矛盾である。
弟子たちだけでなく、私たちもそのことにこそ気づかねばならない。
「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」
「主の祈り」に付け加えられるように語られた言葉は、確かに12節に関連している。
それは、「主の祈り」の全体、そして「山上の説教」の全体にも関連している。
主イエスに従う弟子として生きることは、どれ程の幸いの中に入れられているのか、また神の子とされる幸いは、いったいどれ程の恵みなのか、いささかも忘れてはならない。
神の子とされた一人一人は、自分の罪を悔い改め、その払いきれない負いめを赦された人である。
自分ではどうすることもできない罪の代価を、神の御子が身代わりとなって支払って下さった。
この幸いの根拠を忘れてはならない。
見失って歩むなら、それはキリストの弟子としての幸いを自分で放棄することになる。
2、「私たちの負いめをお赦しください・・・」と祈る時、私たちは神の赦しを心から信じていることを告白している。
神が赦して下さること、赦して下さったことを信じないまま、「お赦しください・・・」と祈ることは有り得ない。
神の赦しとあわれみ、そして豊かな恵みを信じ、感謝を込めて赦しを祈り求める人は、自ずと他の人を赦す人、赦せる人となる筈である。
もし神の赦しを疑い、確信も感謝もないまま、赦しを祈り求めることはできない。
人を赦すことなど、思いも及ばないことになる。
その祈りは見せかけのものとなり、神に祈るのでなく、人に見せるだけ、口先だけになってしまう。
形だけの祈りは無意味である。
その点で新改訳2017の訳語のように、「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」と、心を込めて祈ることが大事となる。
祈りが本物か、また信仰が本物か、単純なことでありながら、見分けるのは案外と難しい。
この二節が語られたのに加え、他でも、神に赦された人は隣人を赦す人となるようにと、主イエスは同じ教えを繰り返しておられる。
神の赦しを信じないままでは、どんな祈りも空しい繰言となるからである。
(マルコ11:25、マタイ18:21~35)自分自身の罪の大きさ、その根深さ、どうにもならない事実を認めて悔改めること。
それが稀薄であると、私たちの信仰も祈りも真実味がなくなる。
私たちの心は鈍いと、主は見抜いておられる。
私たちは、主が語られたパリサイ人と取税人の祈りのたとえ、次の祈りを忘れないでいたい。
「『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」(ルカ18:13)
3、この二節が「山上の説教」の全体とも関わりがあるのは、やはり神の赦しの恵みをどれだけ理解しているか、どれだけ信じて、実際の生き方に反映されているかにある。
「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」という5章20節の言葉は、「もし人の罪を赦すなら・・・」と「しかし、人を赦さないなら・・・」という言葉に通じている。
赦された人が赦す人になる、赦す者に変えられるのは、神が聖霊の働きによって成し遂げて下さることである。
聖霊の導きなしには決して起らない。
起り得ないことを神は成し、罪を赦された神の子たちを世に送り出された。
弟子たち、そして私たちはその神の子の一人とされている。
「平和をつくる者は幸いです。
その人たちは神の子と呼ばれるから」と言われるように。
神の子とされた幸いを感謝して生きる一人一人が、託された務めを果すことになる。
「罪の赦し」と深く繋がっているのが、「平和をつくる者」として生きることであろう。
人を赦せるか赦せないか、それは単純ではない。
けれども、自分が赦されたことを心に留め、その上で周りの人々のことを考えるのか、そこにかかってくる。
赦し合うことを心から望んでいるか、そして平和をつくることに喜びを見出しているか。
それらは日々の生活の中にあって、何を考え、どのように周りの人と接しているのか、全てに関連してくる。
神ご自身が、私の罪を神のひとり子の十字架の血潮で赦し、その赦しに相応しい者として生きるように願っておられる。
神の子として、そして平和をつくる者として生きること、また歩むことが私たちの課題となる。
(※エペソ5:32、ヤコブ3:17~18)
<結び> 1967年10月に旧日本基督長老教会の創立十週年記念大会があった。
メインスピーカーとして来られたのが韓国長老教会の李根三牧師で、大会当日前の礼拝を久我山キリスト教会で迎え、「天国市民の幸い」という説教題で奉仕された。
それは1945年8月15日以来、初めて日本語でする説教と言われた。
今思い返すと、歴史的な出来事の中にいたことで、感謝しても到底し切れない。
キリストにある罪の赦しの下で、共に礼拝をささげたことである。
それからかなりの時間が経っているが、韓国と日本との間には、未だに解決されない痛みが根深く残っている。
李牧師は、記念大会当日、急病で入院され、挨拶文のみを残して下さり、そこで次のように言われた。
「さて、戦時中、日本の基督教団に属する人々が韓国において非常にきついことをしました。
その時、日本の教会は何もなしえなかったことはすまない、贖罪をしなければならない、と云ったような声が多々あります。
しかし、本当の解決、贖罪は、エホバ神の絶対的主権、聖書の原理に立ち、服従する教会を日本人が建設することにあるのです。」
この言葉の中に私たちの課題があると教えられる。
神の子、またキリストの弟子として、「平和をつくる者」となって歩む課題を見失わないよう心したい。
罪を赦された者として、心を低くし、互いに赦し合うことが導かれること、御言葉に堅く立つ信仰によって歩むことが何よりも大事であると!
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