<今日の要点>
試練のとき、確かな神の御言葉により頼む
<あらすじ>
身動きの取れないヤコブでした。
娘ディナははずかしめを受け、それに逆上した兄たちは策を弄してシェケムの男全員を皆殺しにし、女子どもから家畜、その他すべてのものを略奪…。
ためにヤコブ一家は周囲の住民たちの怒りを買い、今にも襲い掛かられようかというところでした。
かといって、少しでも動こうものなら、ヤコブの動きを見張っている周囲の民族が過剰反応して、「ヤコブが動いたぞ!叩け!」とばかりに大挙してなだれ込んでくるかもしれない。
逃げようにも身動きが取れない状況でした。
またしても一家一族全滅の危機…。
前回触れましたが、この頃のヤコブは物質的には豊かになっていましたが、霊的には痩せこけていました。
以前、エサウに会う前は、恐ろしくてブルブル震えながらも、神に祈り、神と格闘したと記されるほどでした。
しかし今回は、どうなのでしょう。
聖書には、彼が祈ったとかは記されていません。
祈ることも思いつかないほど、心は遠く真の生ける神から疎遠になってしまっていたのでしょうか。
どうしていいか、ただ、うずくまって頭を抱え込むばかりのヤコブなのです。
そんな危ういヤコブに、ありがたいことに、神の方から救いの御声をかけて下さいました。
1節で、神はヤコブに「立ってベテルへ行け」と仰いました。
それは、もう何十年も前、ヤコブが兄エサウから逃れて叔父ラバンの所に行くとき、心細さと不安と恐れ、それにうしろめたさを抱えていたヤコブに、神様が現れて、彼を励まし、必ず彼を守って、再びこの地に帰らせる、とお約束下さった場所でした。
(28:10以下)そして「そこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」
と言われて、ヤコブは、はっと思い出したでしょう。
そうだった。
思えば、今まで何度も危ないところを通ってきたが、そのたびに神が助けて下さって、切り抜けてきた。
ラバンのときも、エサウのときも。
それに長い旅の道中も。
神は御使いを遣わして、守って下さった。
そうだ。
神に立ち返ろう。
全身全霊を傾けて…。
この神の言葉で、ヤコブの眠っていた信仰が目を覚ましたのでした。
ここで「祭壇を築きなさい」とあるのは、ここでは感謝をあらわす礼拝を捧げなさいということのようです。
約束通り、神が守って下さった恵みへの感謝を捧げなさいと。
ここで神が、自分が感謝されたくて、感謝を命じるのはいかがなものか、などと思うのはゲスの勘繰りというもの。
宗教改革者のカルヴァンは「神が我々に感謝を求められるのは、私たちが、神が私たちを愛しておられることを思い起こすため」と注釈しています。
とかく、のど元過ぎれば…となりやすい私たちに、神が私たちを愛しているのだということを、よくわからせるため、神の愛の確信を深めるため、つまりは私たちのためなのです。
神の命令・戒めはみな、そうです。
さて、この神の言葉を頂いて、死んでいたヤコブが生き返りました。
2節「それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。
『あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。
そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。
私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。』」
うかつに動くと周囲の攻撃を招きかねないリスクの中、ヤコブは神の言葉に従いました。
もっとも、留まっていてもいつやられるか、という状況ですから、こうなったら思い切って神におすがりするしかないということもあります。
追い詰められて、初めて神に飛びつく。
困った時の神頼み。
それでも神に立ち返るなら、いいのです。
それにしても、です。
神の民たるヤコブの家庭の中に、偶像が浸食していたとは驚きです。
神聖な神の宮に蜘蛛や、ゲジゲジが巣を作っていたのです。
たたいてみれば出るわ出るわ。
以前、ラバンの家を出るとき、ヤコブの妻ラケルが家の神テラフィムの像を盗みましたが、その影響もあったのでしょうか。
偶像は、場合によっては悪霊の住処になることがあると言います。
可能な限り、捨て去りましょう。
「身をきよめ」何か儀式的なことをしたのでしょうか。
汚らわしい偶像の汚れ、悪臭を洗い流す。
「着物を着替え」とあるのは、シュケムの異教的な特色のある着物を着ていたか、あるいは倫理的に堕落したカナン風の着物だったか。
それを神の民のふさわしいものに着替えます。
大みそかに、大掃除して、お風呂に入って、新しい下着に着替えて、さっぱりした気持ちで新年を迎えるようなものでしょうか。
もっともこの時は、一族のいのちがかかっていましたから、正月気分とは程遠く、ヤコブたちは真剣そのものだったでしょう。
カルヴァンは「我々も、もし神にやさしく接して頂きたいと願うなら、我々を神から離れさせるような障害物を、すべて取り除かなければならない。」
と注釈しています。
ヤコブはこうして一族すべての身をきれいにして、神に聖別して、神の言葉に従ってベテルへ上ろうと号令をかけました。
そして「私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう」と、ここまでの神の恵みを思い返し、信仰を取り戻しています。
数えてみよ、主の恵みです。
これも大切なことです。
そして悔い改め。
ただ悪かったと思うだけでなく、神に従うことへと心を向けることです。
悪かったと思いながら、心はまったく神に従う方へ向いていないのは、後悔ではあるかもしれませんが、聖書の言う悔い改めではありません。
いのちに至る悔い改めは、神に従う方向へ踏み出すことです。
こうして家の者たちが持っていた偶像と、それに4節「耳輪」も偶像にかかわるものでしょう、それらをヤコブの所に持ってきて、ヤコブはそれを樫の木の下に埋めました。
この際、第二コリント6:16−18(新約p352)を見ておきましょう。
6:16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。
私たちは生ける神の宮なのです。
神はこう言われました。
「わたしは彼らの間に住み、また歩む。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
6:17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。
汚れたものに触れないようにせよ。
そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
6:18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
こうして霊的準備を整えて、新生ヤコブは信仰をもってシェケルの地を出発しました。
果たして、周囲の住民たちは襲ってくるか…。
緊張してその場所を後にしました。
ところが、驚いたことに、彼らは一向に出てくる気配がありません。
あたりは静けさに覆われています。
5節「彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。」
勇気を奮い起こして神に従ったものを、神もまた力強い御手によって守って下さる。
神に祈ることをやめなかったために、ダニエルが、飢えたライオンの穴に投げ込まれたときにも、ライオンはただダニエルの回りを囲むばかりで、近づくことができなかったように、今、神に従ってベテルに上ろうというヤコブを、周囲の人々はなぜか恐れて、ただ眺めるのみでした。
ヤコブたちは、その真中を堂々と通ってシェケムを後にしました。
今回も神の御手に守られました。
ラバンのときも、エサウのときも、そうだったように、ここでも、この度も。
エサウの時と同様、恐れながらでも、震えながらでも、神の言葉に従って、前に進んだ時に、不思議な守りを経験し、恐れからの解放が訪れたのでした。
こうしてヤコブ一行は、シェケムから南へおよそ50キロの道中も守られ、無事ベテルに着きました。
神の言葉通り、ヤコブはそこに祭壇を築いて神に感謝の礼拝を捧げました。
「エル・ベテル」とは、「ベテルの神」の意。
「ベテル」は、「神の家」の意です。
ちなみに、教会も神の家と言われます(第一テモテ3:15、新約p408)。
そしてカルヴァンは、このところで「神の家」について「この(ヤコブが立てた石の」建造物は、真実なる信仰のあかしであった。
神の生ける御声が響かないところでは、いかなる豪華な物が用いられていても、それらはむなしき影に過ぎない。」
と述べています。
神の御声すなわち神の御言葉が正しく語られていることこそが、神の家の本質です。
どれほど豪華絢爛な教会堂でも、神の言葉が語られていなければ、それは文化遺産ではあっても、生ける神の家ではないのです。
8節に挿入されているのは、デボラという女性の葬りです。
昔、リベカがイサクの嫁に来るときに、一緒にお世話係としてついてきたうばです。
この女性が、いつヤコブ一行に加わったか、不明です。
ただ、リベカのうばがヤコブといっしょにいたということは、リベカ自身は既になくなっていたと推測されます。
彼女が葬られた場所がアロン・バクテ「嘆きの樫の木」と呼ばれたと聖書が記していることから、彼女が人々から慕われていた信仰者だったと言われます。
さて、こうしてヤコブがベテルで神の言葉に従って、祭壇を築き、礼拝を捧げて後、再び神が彼に現れ、改めて彼を祝福されたのでした。
10−12節は、ほとんど、すでに語られていたことの繰り返しです。
「イスラエル」は、「神と格闘する」の意でした。
神と祈りの格闘をした、必死で神にすがりついたヤコブに神が与えた名前でした。
11−12節は、かつて祖父アブラハム、父イサクに神が与えた約束とほとんど同じものです。
信仰をほとんど失いかけていたヤコブでしたが、羊飼いなる神が呼び戻してくれたおかげで、祝福を失わずに済みました。
ヤコブはそこで、以前と同じように、記念として石の柱を立て、ぶどう酒と油を注いで聖別し、その所を改めて「ベテル」と名づけました。
ヤコブの信仰復興(リバイバル)がなりました。
「立て 立て 永遠に変わらぬ御言葉を 信じ立て 神の御言葉に立て」(新聖歌361番)
ここでのヤコブに対する神の取り扱いを見てみましょう。
神はヤコブを、「お前がこんな目にあったのも、お前がだらしないからだ。」
などと、いきなり叱りつけるのでなく、ただ一言「立ってベテルに上って、そこで神のために祭壇を築きなさい」と御言葉によって、なすべきことを静かに示されただけです。
神様の教育の仕方というものを教えられます。
「愚か者の背にはむち」と言われますが(箴言26:3、旧約p1092)、ヤコブにはこれで十分でした。
「悟りのある者を一度責めることは、愚かな者を百度むち打つよりもききめがある。」
(箴言17:10、旧約p1079)御心を悟る心を主に求めましょう。
そのために聖書の御言葉に親しみましょう。
ここでも、生きるか死ぬかの試練のヤコブに対して、御使いを遣わして、奇跡を起こして回りの人々を打ったと言うのではなく、御言葉によってまず、ヤコブ自身を悔い改めさせました。
追い詰められたとき、往々にして人は奇跡を願いますが、多くの場合、必要なのは奇跡であるよりも御言葉です。
カルヴァンは、苦難から救い出される特効薬は、1節の「神はヤコブに仰せられた。」
というところにあるとして、次のように言っています。
「大きな災難において、我々はどこに慰めを見出すべきか?我々が世を歩む上で、我々にとっての最大の務めは、主の御言葉に頼ることである。
主は我々に対し、救いを約束し、我々を最善に扱うことを約束して下さっておられる。」
昨年からコロナが世界を覆い、世は混とんとしています。
イギリスではロンドン市長がコロナの感染拡大は「制御不能」と宣言しました。
日本は今のところ、イギリスほどではありませんが、先は見えず、何を頼りに生きていけばいいのか、不安になっている人たちも多いかもしれません。
そのような中で、私たちは神の言葉、聖書に頼るということを、改めて覚えたいと思います。
聖書が私たちの心の拠り所であり、また足元を照らす光です。
元旦礼拝で話しましたように、羊飼いの声を聞き取って従っていけば、羊は安全です。
私たちの信仰はお飾りではありません。
こういう時こそ、目に見えないお方を信頼するのです。
そのお方の御心は、具体的には聖書に記されていますから、聖書に親しむのが、私たちが羊飼いから離れずに、安全に生活する上で有益・必要です。
もちろん祈りも欠かせません。
祈りとともに、毎日、聖書を開きましょう。
1日1章でも3年半で全部読み終えます。
聖書そのものが手ごわいと感じるなら、聖書日課のようなものを用いても良いでしょう。
家にいる時間は長くなっているのですから、コロナによる不便を逆手にとって、御言葉を心に蓄える恵みのときとしようではありませんか。
それはコロナ禍にあって私たちを支え、導くものとなり、コロナ後にあっては多くの実を結ぶに至る種まきになることでしょう。
あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
(詩篇119:105)
みことばに心を留める者は幸いを見つける。
【主】に拠り頼む者は幸いである。
(箴言 16:20)
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