<序 天で呼吸して、大地を踏みしめる:デボ-ションのある生活>
@文脈
ききんに直面して、祭壇を築く事なくエジプトに下り、サライが妻である事を隠して危険にさらすという罪を犯してしたアブラム。だが、主なる神はキリストの贖いの御業のゆえにアブラムを見捨てることなく、エジプトの絶対的な権力者パロの手から守って、再び約束の地カナンに引き戻された。エジプトにいた間は、祭壇を築いたとか祈ったとか一つも記されなかったが、カナンの地に戻ってからはまた祭壇を築くアブラムの姿が記される。それに対応するように、エジプトではまさかと目を疑う策略を巡らすアブラムだったが、カナンではまた崇高な本来のアブラムの姿が記されている。
A今回の中心的なメッセージ
「天で呼吸して大地を踏みしめる」以前、何かで読んだ言葉である。日々のデボ−ション(個人的な祈りと御言葉の時)、主日ごとの礼拝等を通して、祈りによって心を天に引き上げられ、父なる神また御子イエスと交わる時を持ち、御言葉によって天の価値観を教えられ、神の御心を知る。そういう時間を持つ中で、天に呼吸して天の空気をいっぱい吸い込んで、そして地に足をつけて、日々の生活の中でキリストの御心を行うのである。そのように、自分中心でなくキリスト中心、自分の欲に仕えるのでなく、キリストに仕える生活を送るために、デボ-ションの時を大切にしたいものである。それは主が私たち一人一人のためにと備えて下さっている生活、主に祝福された生活である。
<1 天で呼吸して:祈りと御言葉によって主と交わりを持つ>
13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。
13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。
13:3 彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに天幕を張った所まで来た。
13:4 そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、【主】の御名によって祈った。
@祈りの回復:祈れない時期があっても
「ネゲブ」はエジプトと接する場所で、後のイスラエルの南端の地域。ここでアブラム一行は、エジプトからカナンの地へ戻ったわけである。一行はそこからさらに北上して、以前祭壇を築いたベテルまで来た。その場所で以前、祭壇を築いた事が思い出されたのだろうか。そこでアブラムは主の御名によって祈った。祈るアブラムの姿が回復した。
祈る事を、機械的にその人の霊性と結びつけるのも違うのだが、一般論として、やはり祈るという事に、その人、その時の霊性は何らかの形であらわれるように思われる。どれだけ聖書の知識があっても教会生活が長くても、関係ない。祈りは生ける神との会話なのだから、それが全くないと言う事は、神との関係に何か問題があると言う事である。とはいえ、長い信仰生活の間には、祈れない、神の方に心を向ける事ができない時期というのがあったりするのも事実である。公の礼拝とか兄弟姉妹がたと一緒に祈る時以外で、自分一人で神と向き合って祈ったのは、いつの事だったか、あの頃が懐かしい、などという事はないか。そうだとしたら、今が、祭壇を築き直す時である。
Aデボ-ションが私たちを造りかえ、御心にかなった歩みができるようにと導く
祈りは、願い事を神に知って頂く事でもあるが、神と神の御言葉に向き合う事によって、自分自身が整えられたり、危い道に迷い出そうな所をあるべき所に引き戻されたり、あるいは何か課題がある時に新しい視点や知恵が与えられたり、という点でも大きな意味がある。私たちは、いつの間にかこの世の価値観の影響を受けたり、自らの欲に引っ張られたり、あるいは本当は恐れなくてよい事を恐れて、恐れによって誤った道に行こうとしてしまう事がないだろうか。もちろんたとえ迷い出てしまったとしても、羊飼いである主はまた引き戻しては下さる。だが自分で選んだ道がどういう結果をもたらすのかを学ばせるために、時に蒔いた種を刈り取らされる事もある。もちろん、主の懲らしめは良いものであるので、それも後にはすべて感謝に変えられるのだが。だが逆に、デボ-ションを続ける中で主との交わりを深められ、天の価値観(聖書の価値観)を少しずつ身につける中で、聖霊に導かれて御心を悟り、それを選び取る事ができた時には、主への賛美と感謝、喜びがわき、主へのさらなる信頼・確信が増し加えられる。この道で良いのだと確信が深まる。そういう経験を通して、あっちこっちぶつけたり転んだりしながらも、キリストにお従いする事を徐々に教えられ、成長し、少しずつキリストの似姿に変えられていくのだろう。ローマ書12:1-2
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝ですこの世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
ある本では、忙しい朝には5分の祈りから始めてみる事を提唱している。5分であっても天に通じる生きた祈りを経験するなら、やがて5分では収まらなくなっていくだろう。5分すらも難しい場合は、主の祈りだけでも大きな意味がある。主の御名があがめられますように、と祈って、背筋をピンと伸ばされて、一日を始めるのである。主の祈りは日曜日の礼拝や祈祷会の時だけ祈るものではなく、毎日大いに活用したいものである。
<2 大地を踏みしめる:地上でキリストに仕える>
13:5 アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。
13:6 その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。
13:7 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。
13:8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
@見事な御霊の実を結んだアブラム
祈りが回復し、霊性が回復したアブラムは、さっそくその実を結ぶ事ができた。柔和、謙遜、寛容、富に執着せず平和を愛する心などである。
多くの財産を得てカナンの地に戻ったアブラムと甥っ子のロトとの間にトラブルが起った。身代が大きくなりすぎて住むところが手狭になり、家畜に飲ませる水や食べさせる草の取り合いで、二人の牧者たちの間に争いがしばしば起こるようになったのである。おまけに回りにはカナン人とぺリジ人と呼ばれる現地の人々が虎視眈々と隙を伺っている。こんなところで仲間割れでもしたらそれこそ彼らの思う壺だろう。アブラムはさすがに年長者として、この事態を放っておく訳には行かないとロトに解決案を持ち出した。このままいっしょにはいられないから、別に別に行動しようと。その際に、甥っ子のロトに右でも左でも好きな方を選んで行っていい、自分は残りのほうでいいからと、ロトに優先権を譲ったのである。本来なら、年長者であるアブラムが一方的に自分はこっちに行くからおまえはあっちに行きなさい、と頭ごなしに言っても良かっただろう。ロトはこれまで散々お世話になってきた。アブラムは、誰のおかげでここまで財産を殖やす事ができたと思ってるのか、と言う事もできただろう。だが、アブラムはそうはしなかった。こんな事でロトとけんか別れはしたくない。それくらいなら、と土地選びの優先権を譲ったのである。なかなかできることではないように思う。
A平和を作る者は幸い
アブラムがこのように振る舞えたのは、神に信頼していたからであろう。祈りを回復した事の実である。必要はすべて、神が備えて下さる。そう信頼する事ができた。また、平和を愛する人だったので、このように言う事ができたのだろう。私たちの神は、平和の神である(ローマ15:33他)。それで「平和を作る者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9)と言われ、「平和を求めてこれを追い求めよ。」(第一ペテロ3:11)とも言われている。また「自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(ローマ12:18)とも言われている。時に、人と人との平和のためには、この時のアブラムのように譲歩する事、また犠牲を払う必要がある場合もあるかもしれない。赦すという事も、自己犠牲あるいは権利の放棄の一つである。罪人の世界である。楽して平和は保つ事はできないのだろう。もちろん、正義のために、真理のために、譲歩してはならない事もある。だが、そうでない場合、神は平和のために労する事を喜ばれるという事を心に刻んでおきたい。まず身近なところから、平和を作り、あるいは保つように心がけたい。そしてそれぞれが置かれている所で、御霊に導かれて、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制と言った御霊の実のどれか一つでも二つでも、結ばせて頂く者でありたい。キリストにあって、私たちには確かに御霊が与えられているのだから。
<3 欲に目がくらんだロト:見えるところだけで判断する危うさ>
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、【主】の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。
13:13 ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、【主】に対しては非常な罪人であった。
アブラムとは対照的に、まだ若いというのもあるのかもしれないが、ロトは野心満々だった。アブラムの心も知らず、それなら遠慮なく、、、と少しでも良い地をと鵜の目鷹の目で辺りを見回す。そしてよく潤っているヨルダンの低地を選び取った。だが、そこにあったソドムとゴモラとは、後に甚だしい不道徳のために天から火をもって裁かれた町である。
ロトの選択は、目に映る所に従うものだった。13節に「ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった」とある。自分の欲に惹かれて、霊性や倫理性の堕落ぶりは見ないようにして、彼はソドムの近くに天幕を張ってしまった。富への執着から、見るべきものが見えなくなっていたのである。そして判断を誤り、滅びの道へと近づいてしまった。後に間一髪で彼は助け出されるが、危うくソドムの人々とともに滅ぼされるところだった。
<4 天からの励まし:励まさずにはいられない主なる神>
13:14 ロトがアブラムと別れて後、【主】はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
13:17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに【主】のための祭壇を築いた。
@御言葉をもって励ます主
立ち去るロトの後ろ姿を、アブラムはどんな気持ちで見送ったのか。ロトの行く末を思って、果たしてこれで良かったのだろうか、と案じていたのか。あるいは寂しさ、やりきれなさを覚えたか。しょんぼりうつむいて地面を見ていたであろうアブラムに、主は「さあ、目を上げて」と励まされた。「さあ、目を上げて、広々と広がる地、東西南北、ぐるりと見渡しなさい」と。ロトに好きな土地を選ばせたアブラムに、神ご自身が広大な土地を与えると。そしてあなたが見渡しているこの広大な地域を、わたしはあなたとあなたの子孫とに与えると12章で与えられた祝福の約束を繰り返された。甥っ子のロトと離ればなれになっても、アブラム自身の子孫を地のちりほど数え切れないくらい与えると。しかも今度は、「永久に」とか「あなたの子孫を地のちりのようにならせる」とか、より祝福の度合いが大きくなっている。さらに実際にその足でその地を縦横に歩き回りなさいとあるが、これは古代の中近東で、土地取得の際にこういう儀式を行ったのだろうと言われる。これはアブラムの信仰を励ますための象徴的な行為だろう。
主は御心に従う者に、御言葉をもって励まされる。日々のデボ-ションを通して、あるいは兄弟姉妹がたとの交わりを通して、そのほかあらゆるものを通して、神は励ましを与えることがおできになる。
A御言葉への応答として、ヘブロンで祭壇を築く
この主の言葉を頂いてアブラムは、ヘブロンへ移った。ヘブロンは海抜930mで、ユダの山地南部の最も重要な地点とされる。マムレはエモリ人の族長の名で、彼の町の名でもあった。ロトは低地に、アブラムは高地に。そしてアブラムはそこでまた祭壇を築いた。アブラムに現れて下さって力づけて下さった神への感謝、語られた約束の実現を願う祈り、またロトのためにもとりなしの祈りを捧げただろう。
<結び 御霊に導かれて御霊の実を結ぶ生活を>
私たちは地上に身を置く者だが、国籍は天にある(ピリピ3:20)。そして天にはキリストがおられる。キリストが天に昇られたのは、私たちの心が愛する主を慕って、いつも心を天に向けるためだろう。私たちのために命まで捨てて下さったキリストを心からお慕いする者でありたい。この一週間、キリストを親しく覚える週であるように。そしてキリストの御心を地上で行う知恵と力また導きが与えられるように。
「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。・・・それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかが他の人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3:1-2、12-13)
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