主の2019年1月1日、元旦礼拝に私たちは導かれた。世の多くの人々が初詣をするのとは、全く意味が違うことを覚えつつ、私たちは礼拝をささげるが、それは、やはり、この新しい年も神を第一とするからであって、日々、新しいいのちに生かされながら地上の日々を生きるからと、今年も再確認して歩み始めたいと思う。私たちは、果たして、何をさて置いても礼拝を大切にしたい、また神を第一としたい、と本心から思っているであろうか。今朝はそのような反省も込めて、主イエスの教えに耳を傾けることにする。私たちが、自分で、もうよく知っていると思っている大切な教えに!
1、今朝の聖書は、主イエスの「山上の説教」の中心となる部分である。イエスの弟子、新しいいのちに生きるクリスチャンは、どのような人たちであるのか、どのように考え、どのように生きるのか、その一番肝心なことについての教えが、ひとまとめになっているのが「山上の説教」であるが、その中核となる部分で、主イエスは弟子たちに、あなたがたの心は、一体どこを向いているのか。この地上なのか、それとも天上なのか、と鋭く問うておられる。その上で、地上のことであれこれ心配して、思い煩ってしまうのでなく、父なる神に、全幅の信頼を寄せる者として生きるように。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(33節)神の御手の守りは十分にある。天の父は、あなたがたの必要を知っておられる。そのことを覚えなさい、と言われたのである。
2、私たちは、もちろん、そのことは頭で知っています、分っています・・・と言いつつ、地上での現実に直面して、しばしば狼狽えてしまう。この世の富も誉も、私にはいらないと言うに違いない。そう言いながら、老後の生活のために備えなければならず、人に迷惑をかけることなく過ごすには、どうするのが最善なのか、考えないままではいられない。主イエスは「自分の宝は、天にたくわえなさい」と言われた。そして「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」と。地上の富に心を奪われるのではなく、心は天に、天におられる神にこそ、心を向けなさい、と言われた。心が、あっちにフラフラ、こっちにフラフラしているのでは、あなたは何を信じているのか、と戒めておられる。神を信じていると言っても、それは自分の都合のよい時だけのこと、上辺だけではないか、と迫ってもおられた。本当に大事なのは、私たちのいのちは神の御手の中にあると、心から信じることである。何事が起ろうとも、神に守られ、私たちは生かされていることを見失ってはならない。
3、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」この33節は34節に続く。「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」明日のことを心配して下さる父なる神がおられる。この事実を忘れないように、と言われたのである。「労苦はその日その日に、十分あります」とは、その日その日、神と共に歩むことによって、どんな労苦も、必ず守られ、また報われる、と理解できる。私たちは、新しいこの年も、神を仰ぎ、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」との教えを心に留めて、一日一日を神と共に歩むことを導かれたいと思う。年の始めに神に礼拝をささげることをスタートとして、一日一日、神に心を寄せて歩む生活が導かれるなら幸いである。そして、週の初めの日ごとに、公の礼拝に集まることを喜びたいと願っている。一人一人の日々の生活の中に神がおられ、神が共に歩んで下さることを喜びたいと心から思う。神と共に歩むことの中心に、神によって罪を赦され、赦された者だけが知る心の安らぎ、そして感謝と喜びがあるからである。
<結び> 今年は、一体どんな一年になるのか。世界中で、何か波乱のありそうな気配がする。そして、日本の教会にとっては、信仰が試される年なのかと思う。天皇の代替わりを迎えて、イエス・キリストを信じる信仰が、より明確にされるようにと願っている。あらゆる偽りの宗教と、何がどう違うのか、私たちの信仰が明らかになるように祈りつつ、神と共に歩む一日一日を、しっかりと歩めるように。
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