礼拝説教要旨(2018.12.23)  =クリスマス礼拝=
天には栄え、地には平和
(ルカ 2:1〜21)

 今年のクリスマスは、12月に入って待降節(アドベント)の時を過ごし、今日、その四週目を迎えた。私たちは、お生まれになった救い主キリストは、十字架の上で身代わりの死を遂げるために来られたこと、その十字架の御業を記念するために聖餐式が備えられていることを心に刻んで、この季節を過ごして来た。今朝は、クリスマス礼拝をささげるため、ここに集うよう導かれた。最初のクリスマス、主イエスがお生まれになられた出来事に目を留め心を向け、イエスを拝する者、また救い主を遣わして下さった天の神の御心を、心から行う者とならせていただきたいと思う。

1、クリスマスのこの季節、私たちはどのような思いで過ごして来ただろうか。以前、私にとって、教会に行き始めて、クリスマスは全く変わったと言った。また自覚的な信仰をもって歩み始めてから、またまたクリスマスは変わったとも言った。大きな違いは、サンタクロースのプレゼントではなく、生ける真の神からのプレゼントである救い主がお生まれになったことを喜ぶことにあった。これは「おとぎ話」ではなく、本当にあった出来事で、これを喜ばないで、一体何を喜ぶのか・・・と言うほどの一大事と、心から思うようになった。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(11〜12節)救い主キリスト誕生の知らせは、野宿で夜番をしていた羊飼いたちに知らされた。彼らは、当時の社会では、不遇な人々、社会的には見捨てられていた。そのような人々に神は目を留め、彼らに「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」と告げられた。教会のクリスマスは、救い主の誕生を喜ぶことにある。何としても、救い主のお生まれを大喜びして、御使いが告げたように、私たちも、「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです」と言って、多くの人々に喜びの知らせを告げる、そのようなクリスマスの時を過ごしたいと願って止まない。(10節)

2、この世には、いわゆる「おとぎ話」はあまたあり、世界でも日本でも、心温まる話、生き方を教える話も、きっと思い浮かぶことであろう。けれども、クリスマスの出来事は「おとぎ話」ではなく、歴史上の事実、本当にあったこととして、聖書は教えてくれる。「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。」と。(1〜3節)「いつ、どこで、誰が、何を・・・」という、歴史上の事実が明白に記されている。この勅令は、当時の人々の生活を揺り動かすものとなり、ヨセフはマリヤと共に、ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムへと、登録のために出かけなければならなかった。そして、ベツレヘム滞在中に、月が満ちて、マリヤは男の子を産んだ。マリヤの胎に宿った男の子は、聖霊によるもので、マリヤとヨセフは、御使いの知らせを信じて受け止め、神に身を任せ、幼子の誕生の日を迎えていた。私たちは、聖書を通して、救い主の誕生は予め告げられていたこと、誕生の地についても預言されていたことを知ることができる。(イザヤ7:14、9:6-7、ミカ5:2)神が生きて働いておられ、歴史上の事実として救い主を世に遣わされたことの重さを思わされる。

3、御使いが、救い主の誕生を野原の羊飼いたちに知らせた時、多くの御使いたちも現れ、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(13〜14節)「『天には栄え 御神にあれや 地には安き 人にあれや』と。」(新聖歌79番)あるいは「『天なる神には 御栄えあれ 地に住む人には 安きあれ』と。」(新聖歌80番)救い主誕生の日の御使いたちの賛美の歌声は、天にも地にも響き渡ったことであろう。その賛美には祈りが込められ、特に、後半の言葉は意味深いものである。「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」祈りは、しばしば単なる願望のようになり、ただの繰り言のようになり易い。しかし、本当の祈りは、決して単なる願望ではなく、ただの繰り言になってはならない。「御心にかなう人々」が起こされるように、そして、その人々には担うべき務めのあることが込められている。羊飼いたちは、あなたがたが「御心にかなう人々」となるように・・・と、そのような促しを聞いたのではないか。救い主キリストが、私たちのためにお生まれになったのなら、この方にお会いしたい、この方のお生まれを喜びたいと、ときめいたはずである。彼らは「さあ、ベツレヘムへ行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」と、急いで出かけ、飼葉おけの幼子を捜し当てた。彼らは驚きと共に喜びが溢れ、「神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(15〜20節)

<結び> 誕生から八日が満ちて、幼子は割礼を施され、名をイエスと付けられた。予めマリヤにもヨセフにも告げられていた通りの「イエス:主は救い」である。神は、御自身のひとり子をお遣わしになり、神の御子イエス・キリストを救い主と信じる人に、罪の赦しを与え、永遠のいのちを与えるという救いの道を備えて下さった。この救いに与ることなしに、私たち人間には、本当の意味で心の平安はない。神の裁き、罪に対する神の裁きを免れることができないからである。罪に対する死という刑罰を、人は必ず直感している。死の恐れは、イエス・キリストを信じて、罪を赦される時に、初めて本当に消え去る。永遠のいのちをいただくからである。その人は、神の前に心の安きをいただき、地にあって平和を作る人として、神によって用いられるようになる。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と賛美し、祈ることが、私たちの務めとなり、喜びとなるなら幸いである。この地に、本当の平和が実現することを祈り、また、日々の生活において、キリストを証しする歩みが導かれるよう祈りたい。