礼拝説教要旨(2018.9.23)
さばきににじむ神の愛
(創世記3:8-21)横田俊樹師

 前回は、最初の人アダムとその妻エバが、蛇に惑わされて、神に対してまさかの背信をしてしまった所を見た。
まったくもって「まさかの背信」である。そして以前は主なる神を喜んでお迎えしていたであろう二人が、今や恐れて隠れるようになってしまった。
そんな二人に「あなたはどこにいるのか」と呼びかける主なる神。罪を犯した人間は、自分の方からは神の方に来ない。

むしろ逃げる、隠れる。だから神の方から呼びかける。神は人を愛しておられるから。
今日の箇所には、惨めな罪人に成り下がってしまったアダムとエバの姿と、そんな彼らに裁きの宣告を下しつつ、憐れまずにいられない主なる神のお姿が記されている。<8−13節:良い罪人・悪い罪人?>
 アダムは裸なので、恐れて、隠れたと言った。それもあるかもしれないが、それよりも本当の理由は、神の禁じられた木の実を食べてしまったから、つまり神に背いたから、恐れたのだろう。その本当の理由は言わずに、裸だったので、、、とごまかす。神のお心も知らずに自分の罪をごまかす事しか頭になかったのか。罪人は本当のことをなかなか言わない。

 しかし憐れみ深い主は、頭ごなしに嘘をつくな!とどやしつけるのでなく、あなたが裸であることを誰が教えたのか、あなたはあの木の実を食べたのか、と理路整然と、アダムが自分のしたことを認めざるを得ないように諭す。
子どもを叱る時も、頭ごなしではなく、理解させながら、納得させながら、諭すことが大切という。それが次につながる、次に生きる叱り方。
神は、アダムが率直に罪を告白して、主の憐れみを乞い、悔い改めてくれることを願っていたに違いない。

 ところが親の心子知らず。そう簡単に一筋縄ではいかないのが罪人である。アダムも食べたことは認めた。
認めざるを得なかった。だが、今度はそれはエバのせいだと責任転嫁しようとする。それも、この女があの木から取ってくれたから、
という言い方は、少しでもエバの罪を重くして自分の方を軽くしてもらおうという魂胆がうかがわれる。あの木から取ったのはエバ。

自分はあの木に手を伸ばして取ってはいません。エバが取って、それを私にくれたのです。
いわばこのたびのことはエバが率先してやったこと、エバが主犯格で、私は従属的な立場でございます、と。
また「あなたが私のそばに置かれたこの女が」という言い方は、神様、あなたが置いた女がこんなことをしたんですよ、まったくとんだ助け手ですよ。

あなたにも責任の一端はあるんじゃありませんか?と言っているようにも聞こえる。自分の責任は棚に上げて、人のせい、神のせいあるいは環境のせいにする。エバも右にならえである。神から「あなたは何ということをしたのか」と問われた彼女は「蛇が私を惑わしたので、、、」と
蛇に責任転嫁である。むしろ私は被害者です、とでも言いたそうにも見える。責任転嫁、自分の罪を責めるものを責める事、
それに被害者ヅラ。罪びとの常套手段である。

先週紹介したミルトンによれば、アダムは、エバ一人を滅びに捨て置くのに忍びず、愛するエバと運命をともにしよう!
とあえて木の実を食べたということだが、仮にそうだとすると、木の実を食べた途端、つまり罪が入った瞬間に、
崇高なアダムの姿はガラリと変わって、醜く責任をなすりつけるようになったと言うことになる。罪は人を変えてしまうのである。

 前回学んだように、神の言葉を神の言葉とすることが、神へのふさわしい敬意の表し方である。人の言葉とはまったく違う、神の言葉である。
蛇が何を言っても、神の言葉を神の言葉とするのが当然ではなかったのか。最愛のエバが何と言っても、神の言葉を神の言葉とするべきではなかったのか。あなたがたには主体性というものがないのか。
周りに流されるまま、言われるままなのか、と問われそうである。
神の言葉を退けて蛇の言葉を取ったのは、エバ。神の言葉を退けて、エバの声に従ったのはアダムである。
その行動の責任は言うまでもなく、彼ら自身にある。私たちは一人一人、キリストの裁きの座において、地上での行い、口にした言葉について弁明を求められる。(第二コリント5:10、マタイ12:36)我々は誰しも間違いを犯す。
失敗の連続かもしれない。しかしそれでも主なる神の方は、私たちを求めて呼びかけて下さる。
その時に、素直に罪を告白し、悔い改めるなら、主なる神はどれほど喜んで下さることか。

いや、たとえその時はろうばいして、人のせいにしたり、あれやこれやと愚にもつかぬ言い訳をしたとしても、後になってからでも思い直して、
主の前に出て告白し、罪を悔い改めるなら、それをも主は喜んで受け入れて下さる。その時、我々の心の中にもしかしたらずーっとあったかもしれないあれやこれやの苦しい弁明も消え、平安が訪れる。我々はみな罪人だが、良い罪人と悪い罪人というのがある。あく
までしらを切り、我を通し、最後の最後まで罪を認めないのが悪い罪人。自分の罪を認め、悔い改めるのが良い罪人である。
キリストの救いは、良い罪人のためのものである。ちなみに、ミルトンの失楽園でも、アダムとエバは主の恵みにより、後に悔い改めて、
神の憐れみを乞う祈りを捧げている。

<14−15節:サタンへの宣告に見る神の人への愛>
 神はひとまず、彼らの言い分を胸におさめて、先ずは蛇に裁きを言い渡した。まるで愛するアダムとエバが純真無垢な状態を汚されて、
こんなあわれな状態に落ちてしまったことの無念と憤りを先ず、最初に注ぎ出さずにはいられないかのように、先ずは悪の張本人たる蛇に裁きを宣告され、そして次にエバとアダムにという順番をとられた。

神は人間からは弁明を求められたが、蛇(サタン)に対しては問答無用でいきなり宣告であった。悔い改める余地がないからか。
あらゆる家畜や野の獣より呪われ、一生腹這いで歩き、ちりを食べなければならないという表現は、かつて神の座に着こうとしたサタンがもっとも低められる事も表しているのだろか。この時以前の蛇は足があったというわけではないだろうが、今でも獲物をねらうときに鎌首をもたげて立って動くように、この時まではそういう動き方をしていたのかもしれない。

 驚くのは次である。神は、サタンと女との間に、またサタンの子孫と女の子孫との間に何を置くと仰ったか。「敵意」である。
神を捨ててサタンの言葉を選んだエバなど、そのままサタンにくれてやってもよかったのではないか
。お前の望み通り、サタンのところへ行ってしまえ、と投げ出しても当然ではなかったか。ところが、まんまとサタンの術中にはまって神に背いた人間どもは自分達のものになったと、サタンが大きく口を開けて喜んだ瞬間、神は敵意と言うくさびをサタンと人間の間にガッチリと打ち込まれたのだ。エバはサタンの手には渡さない、彼女はこれからもサタンの敵、すなわち私の側のもの、私の陣営のものだ、と。ふらふらっとサタンの側に行ってしまわないようにという恵みであった。

 さらに女の子孫が、サタンの頭を踏み砕き、サタンは彼のかかとにかみつく、という不思議な言葉。これは女の子孫として生まれる救い主キリストを預言している言葉である。
頭を踏み砕くとは、キリストのサタンに対する完全な勝利をあらわす。人を神に背かせ、滅ぼそうというサタンの魂胆は1人たりともその通りにならず、(御子を信じる者は、一人も失うことなく永遠の命を持つ。ヨハネ3:16)、最後はサタン自身が裁かれる。
しかしサタンがキリストのかかとにかみつくとはどういう意味だろうか?単にサタンにはこの程度の反撃しかできないという意味だろうか?
しかし神はその気になればまったく反撃を許さず完全に勝利することもできるはずである。

これは、キリストがサタンに対してどのように勝利するのか、その方法を示唆している。
噛みつくとは、肉が裂かれ、血が流れる。激痛が走る。そのように救い主も肉を裂かれ、血を流し、激痛を受ける事によって、サタンに対する完全な勝利を得るのである。これは言うまでもなく、十字架の死によるあがないの事を指している。
これは神に力がなくて、こういう方法でしか勝利できないというのではない。正義であられる神が罪びとを救うためには、このように御子が人間の代表として、信じるすべての人の罪を背負い、身代わりに十字架上で刑罰を受けて正義を満足させる事が必要であった。
正義をあくまでも貫きつつ、罪びとを救うためにはこの方法以外にないのである。しかし、これによって神の愛の深さがあらわれた。これほどの痛み、犠牲を払ってでも、人を救うという神の御覚悟、真剣さがあらわれたのである。この15節は原福音と呼ばれる。

<16−19節:人への宣告に見る神の愛>

 エバへの宣告は、産みの苦しみを大いに増すという事であった。しかしここにも残されている恵みがある。
女は出産そのものを取り上げられたわけではない。新しい命が生まれるとその喜びのためにそれまでの苦しみを忘れてしまうという、その喜びは残された。
また夫が妻を支配するという宣告が下されたのは、エバが先頭に立って禁断の木の実を取って食べたという、その逆転した秩序を戻すという事でもあるのだろうか。
もっとも、以前は愛と信頼の関係の中で自発的に助け手として仕えていたのが、必ずしもそうではなくなったという事も暗示されているのかもしれない。いづれにせよ、エバの宣告には呪いという言葉は使われていない。

 そしてアダムへの宣告。妻の声に聞き従い、食べてはならないと神が命じておいた木から食べたので、、、と次にくる言葉を固唾を飲んで待っていると、なんと「土地は」あなたのゆえに呪われてしまった、という。

神の手から解き放たれた呪いの矢は、アダムに突き刺さるかと思いきや、いわば肩をかすめただけで、地面に突き刺さったのである。
土地はヘブル語でアダマー。アダムと関係の深い語で発音も似ている。アダムが呪われたでなく、アダマーが呪われた。
音が似ているのでアダムも一瞬ビクッとしたかもしれないが、呪われたのはアダムではなく土地だというのである。
それゆえ、土地はいばらとあざみをはえさせるようになり、労働に伴う労苦が大いに増したという。しかしここでも恵みは残されている。
労苦はしても、収穫そのものが取り上げられたのではない。やはり労苦の後には収穫の喜びの時が待っているのである。
そして地上の生涯の終わりには土に帰るという宣告。「死」と言わず、土に帰るという言い方には、労苦の後の安息というニュアンスが感じられるのではないか。もっともこれは彼の肉体に関してであって、彼もまた復活の時には天から与えられる肉体、御霊の肉体を与えられて、永遠の御国をともに継ぐことになる。

 ここで再度ジョン・ミルトンの失楽園から引用したい。絶望に沈むエバにアダムが語り掛けている場面。

「いかに神が、少しも怒りと非難の色を示すことなく、優しく穏やかにわれわれの声に耳を傾け、裁かれたかを思い出すがいい。
われわれは即座に死滅するものとばかり思っていた。−その日に訪れる死とは、そういう意味だと考えていた。

ところが、意外にも、お前に対してはただ出産の苦しみだけが予告されたにすぎなかった。
しかもその苦しみも、お前の胎内に実ったものの生まれ出る喜びによって、直ちに償われるというではないか。
わたし自身に対する呪詛にしても、直撃するどころか、いわば掠っただけで地面に落ちてしまった。

わたしは働いて自分の糧を稼がなければならないとのことだが、そんなのは少しも苦にはならない。
怠けろと言われた方がもっと辛かったろう。
労働すれば自らを養ってゆけるのだ。それに神は、われわれが寒さや暑さのために体を壊さぬようにと、ご自分の方から時機を失せずにいろんな物を恵み、一方では裁きながら他方では憐れみ、値打のないわれわれに親切にも衣類を与え給うた。

もしわれわれが祈り求めるならば、神はさらにその耳を開き、その心を傾けてわれわれを憐れみ、厳しい季節の変化や雨や氷やあられや雪を避ける手段を、教えてくださるに違いない!」

アダム、いやジョン・ミルトンは、裁きの宣告の中に残されている神の憐れみ、恵みを過たずに読み取っていたのである。

<20−21節:一方では裁きながら、他方では憐れみ.....>
この神の宣告を聞き、思い返してだろうか、アダムはしっかりと神が救い主を送ってくださるという約束を信じ、希望を持つことができた。
妻に「エバ」と名付けた。それはすべて生きているものの母という意味を込めての命名だという。
罪ゆえにすべての人が死すべきものになった。そのことだけを考えると絶望的になる。ある意味ではエバはむしろ死をもたらしたのではなかったか。
が、神が与えてくださった救いの約束のゆえにむしろ希望を込めてこう名付けたのではないか。

そして最後に21節である。神である主ご自身が、アダムとエバのために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださったという。
まさしく先のミルトンの描いたアダムの言葉の通り、神は一方では裁きながら、他方では憐れんでおられたのである。
怒りに任せて、もうみそも〇〇もいっしょくたに見境なく、ちゃぶ台返しをするような怒り方ではないのである。
憐れな罪びとに成り下がった二人がみすぼらしいいちじくの葉っぱを身に着けている姿を見るに忍びず、
皮の衣を作って彼らを覆わずにはいられなかった。親心である。

アダムたちの体を覆う衣を与えた神は、彼らの魂の裸を覆う衣をも用意してくださった。キリストの義の衣である。
これは二つの点でキリストを暗示している。一つは、前のイチジクの葉っぱはアダムたち自身が作ったものだったのに対し、こちらは神が用意されたものである点。もう一つは、皮の衣という事は、羊か何かの動物が犠牲になったという点。

人間が用意できるのはせいぜいいちじくの葉っぱくらいのもの。みすぼらしく、すぐ破け、到底役に立たない。
神が用意してくださる衣でなければ、用をなさない。それも尊い御子キリストの犠牲によって用意された義の衣をまとうことなしには、誰一人として聖なる神のみ前に出ることができない。
今日の箇所には、罪を犯した人間に対する神の裁きの宣告が記されていたが、その中でも至る所に神の御愛がにじみ出ていた。
神はご自分に逆らった人間を激怒するのではなく、失ったと感じて悲しんでおられ、「あなたはどこにいるのか」と呼び掛けておられる。

悪は裁かなければならない。しかし激怒して見境なく怒りをぶつけるのではなく、それどころか人が罪を犯してしまった後も希望をもって生きていけるようにとすぐさま救いの約束を与えられる。人の営みに苦しみは増し加えられたものの喜びも残しておられる。

そしていちじくの葉っぱを綴り合せたみじめな覆いを見ては、皮の衣を作って着せてやる。この神の親心を改めて礼拝したい。