今年も早、半年以上を過ぎ、猛烈な暑さの一休みの中で8月を迎えた。一年一年、また一日一日、私たちは神の前にどのような日々を生きるのか、神のみこころに沿う生き方を追い求めている。ところが、どんなに真実に生きようとしても、様々な現実に直面する時、迷うこと、戸惑うこと、どうにもならないことなど、心が折れそうになることがしばしばある。中でも、毎年8月には、やはりこの国の歴史を振り返り、戦争のこと、平和のことを考えるように導かれているが、この数年は、ハラハラ、ドキドキ、ちょっと待って欲しいと思うことが、次々と迫っている。そんな時こそ、やはり、みことばに耳を傾けること、それが大事とつくづく思う。今朝は、詩篇にある、「悪を離れ、善を行え。平和を求め、それを追い求めよ」との言葉を、しっかり心に刻みたい。
1、生ける真の神が、私たち人間に望んでおられるのは、造り主である神がおられること知って、私たちが神を恐れること、神の前に心を低くし、神と共に歩むことである。「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7) 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。・・・結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。・・・」(伝道者の書12:1・・・13・・・)詩篇34篇には、ダビデによるとの表題が付いている。信仰において優れた王と言われるダビデも、幾度か致命的な失敗をし、苦悩する日々を歩まねばならなかった。彼の優れた点は、罪に堕ちたところから、素直に神を見上げ、悔い改めるのに、実に率直であったことである。この詩篇の全体には、そのようなダビデの信仰が現れている。「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。・・・私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。・・・この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。・・・主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。・・・」(34:1-10)
2、ダビデは、主と共に歩む日々の幸いを、自分の周りにいる人々にも味わって欲しいと願った。「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。・・・あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。悪を離れ、善を行え。平和を求め、それを追い求めよ。・・・」そして「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる」と勧める。(11〜18節)9節でも、「主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ」と語り、神を恐れ敬って生きること、それが祝福への道と説く。神を仰ぎ見る生き方の大事さ、また尊さは、周りの人々との関わり方に繋がることを気づかされる。神を敬うと言いながら、兄弟を軽んじたり、嘲ったり、欺いたりと、私たち人間の罪の恐ろしさは、残念ながら底なしである。だから鋭くくぎを刺す。他の詩篇でもはっきりと言う。「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。」神の力強い御手で守られることがなければ、私たちの口は、たちまち悪口を言い始めるからである。「私の心を悪いことに向けさせず、不法を行う者どもとともに、悪い行いに携わらないようにしてください。私が彼らのうまい物を食べないようにしてください。」(詩篇141:3-4)
3、私たちは、自ら進んで「悪を離れ、善を行え。平和を求め、それを追い求めよ」との命令に、心から従う者とならねばならない。この世は、神に背いて、自分の思いを遂げることに懸命である。悪を離れようと考えても、「これは必要悪・・・」とばかりに、抜け道を探す。善を行おうとしつつ、「きれいごとではすまされない・・・」と、これまた悪しきことに身を任せさえする。「平和を求め、それを追い求めよ」との命令を、本気で聞き、この戒めに従うには、どうすべきなのか。72年前の8月6日、9日を思い返す度に、平和を追い求めるには、一体何をすべきなのか、どんな思いで、この地上の日々を生きるのか、課題の多さに圧倒される。この7月7日に国連で核兵器禁止条約が採択された。その採択に、日本は不参加であった。「核兵器のない世界」を目指し、核兵器の使用、開発、実験、生産、製造、保有などを禁止する内容の条約の採択に、129カ国が参加。そのニュースに関連するかのように、非人道的なクラスター爆弾の使用禁止条約を巡って、日本の大手銀行が、その爆弾製造企業に融資していることが報道された。平和を求め、それを追い求めるに当って、気が遠くなる道のりのあることを痛感させられた。私たちは、どのようにして主イエスの教えに聞き従ったら良いのだろうか・・・と。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」(マタイ5:9)
<結び>「悪を離れ、善を行え。平和を求め、それを追い求めよ。」この命令に聞き従うには、「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる」と言われていること、真心から「主を恐れる者」となることが、その道筋である。私たち人間は、自力で、悪を離れることはできない。また、善を行うことも不可能である。神の前にひれ伏す者を、神は助け、力を与えて立たせて下さる。私たちが戸惑い、またこの世の力に翻弄されることがあっても、主を頼る者を、主ご自身が守って下さるからである。詩篇はそのことに触れている。「正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。主は、彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。・・・・主はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。」(19〜20・・・・22節)私たちは、いよいよ神に頼り、神を恐れ、この世にあって、神を恐れるからこそ、周りの人々と和らぐことを導かれたい。人と人との関係から始まり、国と国との関係においても、互いに和らぐことのために心を砕くことができるように。為政者のために祈り、この世で正義と公正を求め、平和を追い求めることが導かれるように。
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