危機の時、ヒゼキヤは主の宮に入って祈った。神はその祈りを聞いて答えられた。大軍を率いていたラブ・シャケはアッシリヤの王と落ち合うためにエルサレムから退いたのである。しかしヒゼキヤを悩ました危機はなお続いていた。
1、アッシリヤの王はユダを攻め落とすことを諦めたわけではなかった。次の機会をねらっていたのである。クシュ(エチオピヤ)の王ティルハカが動いた時、ユダを征してこれに備えようと、再びヒゼキヤに降伏を迫った。ヒゼキヤにしてみると、事態の好転はなく、以前に増して危機が高まった。アッシリヤに反攻して生き残った王はいるのか答えてみよと、激しく迫られたからである。(9〜13節)
祈りによって一時期助けが与えられたのは事実であった。けれども、少し時間が経って、実際には状況はほとんど変化がなかったというのが、この時の真相である。そんな時、人はどのように感じるのだろうか。神への不信が頭をもたげそうになる、そんな状況であった。
けれどもヒゼキヤは動じることなく、この脅しに対処した。彼は先の時と同じように、祈るために主の宮に上って行った。祈りに答えて下さる神がおられると信じること、そして祈りが答えられた経験があることによって、彼は迷うことなく主に祈るよう導かれていたのである。
2、ヒゼキヤにとって、神は今ここに臨在しておられる方、天と地を造られた方であった。目には見えずとも、この方だけが地のすべての王国を支配される神と、彼は確信していた。(ケルビム:契約の箱の両端に互いに向かい合うように置かれた純金の像。翼を広げたそのさまが見えない神のみ座のように見なされた。)彼は生きておられる、唯一の神に祈りをささげたのである。
「主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください」と祈り始めた。アッシリヤの王のことばを聞いて下さい、また彼が成した業を見て下さいと祈るのであるが、ヒゼキヤの確信は、主はもうすべてを見聞きしておられるゆえ、何を言うべきかというところであった。(15〜19節)
生きておられる真の神、主と、人の手による偶像の神々との差は歴然としていた。アッシリヤが滅ぼした諸国の神々はもちろん、アッシリヤも主の前に立ち向かうことなど有り得ないことをヒゼキヤは信じていた。主こそ神、大いなる方、何者もこれに打ち勝つことはできないと。(歴代第二32:7〜8 783頁)
3、祈りを聞かれた主は、イザヤを通して、「あなたがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた」と答えられた。主はアッシリヤの高ぶりを確かに見ておられた。主ご自身の手の中にあることを忘れたアッシリヤを「もと来た道に引き戻そう」と、主は言われた。主はこの世界で起こり来る全てを支配しておられた。全ての人はこの神の前に身を慎むこと、心を低くすることが求められているのである。(21〜28節)
ヒゼキヤとユダの民に対しては、危機からの解放が約束された。地の荒廃、生活の困窮はたちまちの内に解消しないとしても、次第に地の実りが回復し、生活の安定が必ずもたらされる、しかも、「万軍の主の熱心がこれをする」と宣言されている。人の熱心は当てにならず、頼りにならないのに対して、万軍の主の熱心こそ、民の拠り所して確かなものなのである。(29〜31節)
主の約束のことばは、アッシリヤの王について「彼はこの町に侵入しない。・・・・塁を築いてこれを攻めることもない。彼はもと来た道から引き返し、この町には入らない。ー主の御告げだー」と明確であった。そして「わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」と、揺らぐことのない神の守りと救いが約束された。神は、何があったとしてもご自分の民を救って下さるのである。神ご自身の真実さのゆえに!(32〜34節)
<結び> ヒゼキヤは果たして主のことばを信じることが出来たのだろうか。どのように受けとめたのだろうか。私たち自身の思いや信仰に置き換えてみるのは興味深い。「彼はこの町に侵入しない。」「彼はもと来た道から引き返し、この町には入らない。」これらの約束は、とても信じ難いものである。しかし、主は「わたしはこの町を守って、これを救おう」と言われたのである。
主はその夜、主の使いを送ってアッシリヤの陣営を打たれた。それは疫病による急な出来事と考えられているが、神の不思議な介入があったのである。アッシリヤは大打撃を受けて、退散するしかなかった。そしてセナケリブには悲劇が待ち受けていたのである。主のみ業の不思議としか言いようがない出来事が起こったのである。(35〜37節)
主はヒゼキヤや民が信じようと信じまいと、ご自身のみ業を成し遂げられたのである。この点こそ、私たちが聖書を通して学ぶべき真理である。私たちは主がどのように神の民を守って下さるのか、また救って下さるのか、その全容を知らされていることになる。その上で私たちもまた神を信じ、神の救いを待ち望む者となるように招かれているのである。(聖書の中の出来事だけでなく、身近な人々の証しをも通して・・・・。)
神がご自分の民を守り、これを救って下さるのは、「わたしのために、わたしのしもべダビデために。」と言われている。このゆえに神の約束は全く揺るがないのである。しかもこの約束の成就は、イエス・キリストの十字架のみ業が成し遂げられたことに及び、主イエスは「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。・・・・わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことがありません。」と語って下さっている。私たちは神の守りと救いの確かさを心に留め、神を信じ、また主イエスを救い主と信じる信仰に、一層進ませていただきたいものである。(ヨハネ10:11・・28)
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