主に信頼して「主の目にかなうことを行った」ヒゼキヤは、彼と共にいて下さった主に守られ、祝福されて歩んでいた。主に堅くすがる信仰によって大国アッシリヤの脅威にも耐えていた。アッシリヤに仕える道を選ばず、抵抗を繰り返していた。
1、けれども現実は容易ではなかった。アッシリヤは絶えず南下してユダ王国を脅かし、町々は攻撃にさらされていた。そしてヒゼキヤの抵抗も空しくユダにあるすべての城壁のある町々が攻め取られてしまった。(13節)この時ヒゼキヤはラキシュにまで攻め入ってきたアッシリヤの王に使いをやって、和睦を申し立てている。抵抗を自分から詫びて、降伏する思いさえ示し、「私のところから引き揚げてください」と願ったのであった。(14節)
ヒゼキヤが払った代償は大きかった。アッシリヤの王は次々と要求し、主の宮に張られた金までもはがして、アッシリヤの王に渡すことになった。主に信頼したヒゼキヤにしては、不本意なことであったに違いない。彼の信仰が揺らいで、アッシリヤの言いなりとなっていたのかも知れず、それほどにアッシリヤの圧迫が激しかったと考えられるのである。(15〜16節)
ヒゼキヤについて少し好意的に考えるならば、主に信頼すればこそ、和睦、停戦を申し出たとも考えられる。必要以上の抗戦は双方に傷跡を残すばかりで、争いを止めるのに宝物を差し出すのは小さなことしたということはないだろうか。(※ヒゼキヤの姿に、彼の弱さや不信仰を読みとる解釈があるが、アッシリヤに取り入ろうとしたのではなく、抗戦を止めようとした彼の信仰も読み取れるのである。)
2、ところがアッシリヤの野心は留まるところがなかった。ヒゼキヤの力はもはや風前の灯火とばかり、決着を着ける勢いでエルサレムに攻め上って来た。アッシリヤの大軍を率いたラブ・シャケがヒゼキヤとその家来たちに向かって叫び、戦線布告をした。「いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。・・・・主に拠り頼むというが、その神は弱々しい神ではないか・・・・たった二千の騎兵さえ揃えられないではないか・・・・」と。(19〜25節)
ラブ・シャケはヒゼキヤに向かって叫びつつ、民に向かって語っていた。主に拠り頼むことが根拠のないことと思わせ、自分たちこそ主によってここに攻め上っていると、民を惑わすことをねらっていた。ユダの言葉を用いて、民が理解できるよう、民に聞かせるように語っていたのである。(25〜27節)
すでに城壁を取り囲まれていたヒゼキヤと民にとって、敵の惑わしは深刻なものであった。このままでは力尽きるのは時間の問題というほど、追いつめられていた。ラブ・シャケのことばはついに、「ヒゼキヤにごまかされるな。彼は主が必ず救って下さると主に信頼させようとするが、そうはさせない。アッシリヤの王に降参するのが一番良いこと・・・・。ヒゼキヤに聞き従ってはならない」と、民の動揺を大いに誘うものとなっていった。(28〜35節)
3、敵の嘲りと惑わしは「主に頼るのを止めよ。ヒゼキヤに聞き従うな」とユダの民によく分かるように語られていた。しかし民は沈黙して、一言も答えなかった。それは民がヒゼキヤに従い、主に頼っていたしるしであった。家来たちはラブ・シャケのことばを王に告げ、民が沈黙して主の助けを待ち望んでいることを知らせた。この時の民の沈黙の姿は、恐れの日に主を待つ信仰者の姿であり、私たちの見習うべきものである。(36節)
そしてヒゼキヤはこの危機の時に慌てるのではなく、祈りのため主の宮に入った。彼は自ら祈るだけでなく、預言者イザヤに窮状を告げ、「祈りをささげてください」と要請した。彼は弱さを認め、助けが必要と訴えている。危機に際して対策を求めるのではなく、祈りを求めたこと、ここにヒゼキヤの信仰が現れている。主が侮られていると理解したので、主ご自身が立ち上がって下さるように願うのである。(19:1〜4 詩篇50:15、18:1以下、91:1以下)
主はイザヤを通してはっきりと語られた。「主はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」主は、人のことばを恐れるな!と明言された。人が何を言おうと、主を信頼する者は必ず守られると言われるのである。(5〜7)
<結び> 人が生きていく上で何が肝心か、何が問題となるのかと言う時、肝心なことは何を恐れているか・・・・である。揺るがないものに、また揺るがないお方に目を留めているだろうか。実際は、人を恐れ、人のことばに左右されることの余りに多い私ではないかと、反省するばかりである。
ヒゼキヤと民の経験は、私たちが今日、日々世の人々から突きつけられている事柄と似ている。人々は、イエス・キリストに信頼していて本当に大丈夫なのか、神を信じていても現実には何も役に立たないではないかと迫ってくることがある。身近な者のことばや職場などの有力な人からのことばが、いつまでも心に残って離れないのである。キリストに信頼するより、ずっと幸いな生き方がここにある、聖書に従っていても何の良いこともないではないか、との惑わしは実に様々な形でもたらされているのである。主イエスは、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と、命じておられる。(ヨハネ14:1)
惑わされないカギは、やはり神が共におられるとの確信である。嘲りのことばが自分に浴びせられていると考えるなら、それに耐える力はない。打ち勝つ力など皆無である。神に信頼する者は神が侮られていることを悟るのである。神ご自身が立ち上がって下さると信じて、祈ることができるのである。民は祈るヒゼキヤを頼り、ヒゼキヤは主の預言者イザヤを頼り、主からの力づけをいただいたのであった。「わたしを冒涜したあのことばを恐れるな。」
そして、人を恐れず、また人のことばを恐れずに神に祈るカギは、自分の弱さを認めることにおける潔さである。敵に反撃する力のないことを認めて祈る姿は、弱い時にこそ主にあって強い神の民の幸いな姿である。私たちもそのように歩ませていただけることを信じ、感謝し、栄光を神に帰す者とならせていただきたい。
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